第2楽章 第2節
『ふたつのはんぶん』
今、
弾いているのは右手パートだけだが、柊二よりはるかに上手かった。それどころか、柊二の耳には原曲より上手く聞こえた。
「…………」
滑らかに、そして流れるように鍵盤の上を踊る文奈の白い手。
柊二は音に聞き入り、鮮やかに舞う細く優雅な指に見入った。
いつも弾いている曲なのに、自分が弾くものとも原曲ともまったく違う曲を聴いているような感覚だった。
(何なんだこれ……?)
そう呟いたはずの柊二の喉からは、かすれた吐息が漏れただけだった。
「どや? なかなかのもんでっしゃろ、おにーさん?」
圧倒的な衝撃を与える演奏が終わり、音の余韻が消えると、文奈は飲み屋のおねーさんを口説こうとする酔った中年のオッサンのようにいやらしく口の端を吊り上げた。それがなぜか端正な顔立ちに違和感なく似合っていた。
対する柊二は、そんなことに気を回す余裕もなく茫然自失状態に陥り、返事することさえ忘れていた。受けた衝撃の大きさは、今までの彼の人生において余裕で上位に食い込むレベルだった。
「ほれほれ、素直に私を誉めていいのだよ、樋川くん? 遠慮は無用やで」
「あ……う……おお」
圧巻の旋律を奏でたその指でぷにぷにと頬を突付き回されて、ようやっと正気を取り戻す。同時に、いくつかの疑問の答えがコトンとあるべき場所に落ちたような気がした。
「なるほどな……。それで俺の手抜きを見抜いたわけか……」
そう呟いて、ぷにぷにされながら文奈の得意満面な顔をまじまじと見つめた。
自身がこれだけ弾けるからこそ、他人の錬度やミスや手抜きがわかる。
考えてみれば単純なことだった。
「芸術科のヤツってすげぇんだな。レベルが違う」
心底感心したように嘆息し、素直な賛辞の気持ちを込めた目で文奈の白い手を見た。繊細で今にも折れそうな手があれほどの演奏をこなすとは、ただただ凄いとしか言いようがなかった。
しかし。
「ちゃうって。私も普通科やから」
そんな全面的な賛辞に気づくでもなく、文奈はひらひらと手を振って否定した。
柊二は再びの予想外に思わず「は?」と呆気に取られる。
「普通科?」
「そう、ふ・つ・う・か。ピアノはそれなりに弾けるけど、芸術科やないねん」
「なるほど……なるほど……」
その説明に何度も繰り返しうなずき、納得した。
文奈は芸術科ではないがピアノはめちゃくちゃ上手い、と。
つまりそれは――
「願書を出すときに間違えたんじゃないのか?」
「う……。ははは、まさかーそんなはずないやんかー」
昨日自分が言った質問をそのまま返され、文奈は清々しいまでの棒読みで答えた。ネタを振るのは得意だが振られると困るタイプのようだ。
「とまぁ、冗談はさておき。二人で弾くんやから、半分ずつな。樋川くんは左手のパート」
「おう。……じゃなくて、俺はまだやると言ってないぞ」
「ええやん。ライブはともかく、一緒に弾いてみたいねん」
と文奈は強引に連弾(本来一人で弾く曲を二人で片手ずつの演奏にすることを連弾と呼ぶのかどうかはさておき)を決定し、鍵盤に手を乗せた。そして柊二を急かすように、愛らしい茶色の瞳と至高の笑みでじっと見つめてくる。
性格はともかく、外見は大層おモテになられそうな美少女であるからして、所詮はいろいろ持て余しがちな若い高校男児である柊二が、その美しい容貌の女子の願いを断れるはずもなく。
「……ったく、一回だけだからな」
悲しい青春野郎の
すると、やったー、ありがとー、と文奈は軽いノリで喜び始めた。
その様子から、うんと言うまでゴネるつもりだったらしいと悟る柊二。
「しかしお前、ホント強引なヤツだな……。関西人ってのはみんなそうなのか?」
「知りまへんなぁ。ウチ、生まれも育ちも大都会東京やし」
「ウソつけ!」
あからさまな
そのとき。
(……あれ。これちょっとヤバいんじゃねーか?)
柊二は少しばかりの窮屈さを感じながら、そんなことを思った。
もともと一人で演奏する曲を二人で弾こうというのだ。当然のことながら右手と左手が近いポジションになることもあり、その際には否応なしに二人の身体を密着させなければ弾けない個所も出てくる。
それをわかっているのだろうかと柊二が隣に目をやると、身体が触れ合うことに何の躊躇いもなさそうで、むしろ一緒に弾くことが嬉しいと言いたげな文奈の横顔が思いのほか近くにあった。
その表情がとても楽しげで綺麗に見えて、ほのかに香る甘い匂いが心地よくて、触れる肩が温かくて……柊二は思わずぼーっと見つめてしまっていた。
「? 樋川くん?」
「あ! いや! なんでもないでス!」
鼻と鼻が接するほど顔を近づけて覗き込んで来た文奈に慌てて言葉を返す。
その距離は、ほんの少し顔を突き出すだけで唇が触れてしまいそうなほどに近い。微かな吐息すらはっきりと感じ取れる、わずかな間隔。
「じ……じゃあ始めようか!」
そのままいっちゃえ的衝動を必死で抑え、ドキドキする鼓動が文奈に聞こえないようにわざと大きな声を出し、柊二は鍵盤に置いた左手を構えた。うやむやのうちに連弾することになってしまったことに対する反論よりも、肩に触れる温かさと柔らかさに戸惑い、噴き出る焦りを抑えることに精神力のほとんどを消費していた。
(……うわ何か全ッ然集中できねぇっ……!)
「用意はええ?」
「お、おう。いつでも」
「じゃ……せーの」
と、二人が奏でた旋律は――見事なまでにバラバラだった。
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