第8楽章 最終節

 ピアノを続けるのか。


 それに対する明確な答えを、柊二しゅうじはまだ持っていなかった。

 今日のためだけに必死になって、その先のことなど何一つ考える余裕などなかったからだ。今は目標を達成してゴールテープを切った状態で、やっとそれを考える余裕が出てきたところなのに次の目標をと言われても、すぐには思い浮かばない。

 ただ、これほど必死になることはもうないだろうという感覚だけはあった。


「続けない、だろうな。暇つぶし程度に弾くことはあっても、もうこんな大きな舞台で弾くことはないな。機会があっても多分弾かない」

「え? なんで? 頑張って練習してこんなに上手くなったのに?」


 予想外の返答に、ふみはもたれていた身体を起こし、慌てて顔だけ振り向いた。

 母親との不和を取り除けば、そのかせに捕らわれていた柊二は自由にピアノを楽しめるようになると思っていた。

 だからこそ彼の妹の『お願い』を受けて手を回し、この音楽祭で彼の演奏を母親に聴いてもらったのだ。柊二の気持ちがこれでもかというほど詰まった演奏なら、母親の心を動かせると確信していたから。

 それは思い通りになって、母親と柊二はわずかながらも歩み寄ることができた。

 今や柊二を縛るピアノに対する負の鎖はなくなった――はず。

 しかし柊二は弾かないと言う。

 文奈は思いも寄らない展開に戸惑った。


「お母さんとのケンカも収まったんやし、ピアノが嫌いな理由がなくなったんやで?」

「それはそうなんだが……目的がないからな。俺はお前と違って、大勢の前で弾きたいという願いはない。今回はお前の分まで頑張ると約束したから必死になったけど、もともと俺は本気で弾き続けたいとは思ってないんだよ。……本気でなきゃ、文奈を近くに感じられないわけじゃないし」


 と若干恥ずかしいセリフを織り交ぜつつ、柊二は椅子の背に伸びた。


「目的……」


 言われた言葉を反芻はんすうし、噛み砕いて、眉間にシワを寄せつつ考え――文奈はふと思い当たってニヤリとした。


「んー? ということは、目的それがあったら本気で弾き続けるのもやぶさかやない、と?」

「あー……そうなるかな。よくわかんねぇけど。……ってお前、何考えてんだ?」


 膝の上に乗った小悪魔ふみなの肩が小刻みに揺れていることに気づき、柊二は不穏な何かを感じ取った。

 くっくっく、と含み笑いすら錯覚で聞こえるような底意地の悪い顔が自分を見つめていて、背筋に冷たいものが走る。


「柊二くん、今日この場に私がおるのって、なんでやと思う?」

「俺の演奏を聴きに来た……ってだけじゃなさそうだな、その顔は」

「ふふふ。それはここにいる理由の八十パーセント。残る二十パーセントは……」


 もったいつけながら立ち上がり、二歩進んでくるりと振り返る。


「作曲の勉強をするために、こっちの専門学校……というか個人経営の音楽スクールみたいな感じのトコの入学願書を出しに来たから。一線級の作曲家が講師やから本格的やねんで」

「うん? 確か作曲には全然興味がないとか言ってなかったか? 記憶違いか」


 ピアノが弾けなくなって絶望したときにそうだと言っていたはず、と記憶を掘り起こす。ピアノ以外の専攻は眼中になくどうでもよかった、と。


「言うたよ」


 勘違いじゃない、と文奈はうなずく。


「そのときは確かに演奏以外に興味はなかった。でも、柊二くんに会って、オリジナル曲を聴いて、二人でライブ用にアレンジしたり間奏のソロを付け足したときに、作曲もいいかもって思った。やってみると案外面白かったし」


 柊二が授業を受けているあいだ、文奈は暇に飽かしてソロのメロディラインを考えていた。それを片手で弾きながら試行錯誤しているうちに楽しくなってきたのだ。

 このフレーズは柊二には難しいかも、でもいい感じだから弾けるようになってもらいたい、それよりまず気に入ってもらえるかな、と心が弾んでいた。


「――けど、そのときは今ほど本気やなかった。お遊び程度にええ加減な曲を作って、二人で弾けたらええかなって。でもそれじゃアカン、真剣に頑張ってみようって。そう考え始めたのは、柊二くんの家に行ったあの夜やね」

「あの夜? ああ……」


 そういえば、と柊二。

 自身の不甲斐なさに落ち込んでいてそのときは聞き流してしまったが、確かに文奈は「私も頑張る」と言っていた。

 あれはそういう意味だったのかと今になって気づいた。


「なんというか、柊二くんに頑張れって言うなら、私も泣いてやんと頑張らなアカンなー、て。そう思った。なんやかんや言うても音楽が好きやし、どうせなら楽しくやれそうなそっちの道へ行こうって。それで、ちゃんと作曲を勉強しようと決意したわけでして」

「……なるほど」


 わかりやすい説明に柊二は二度うなずく。

 演奏家ピアニストは無理でも、作曲なら傷ついた左手のハンデはそれほど重荷にはならない。最近はコンピューターを使えば複雑な演奏も再現できる環境があり、そうやって作り上げた曲の楽譜を書き、そこに表れないニュアンスは言葉で演奏者に伝えることができる。奏者が文奈の意図を完全に理解できれば、彼女が演奏していると言ってもそんしょくないものになるだろう。

 確かにいいアイデアだと柊二は思った。

 文奈はやはり音楽と共にあってこそ輝く。それは半年に満たない時間でも十二分に感じていた。

 ただ、それには解決しなければならない問題が一つある。


「それはいいとして、文奈の親はスクールに通うことを了承してんのか? お前には前科があるし、許可してもらえるとは思えないんだが」

「ええ。めっちゃ反対されましたが何か?」

「されましたか。そうですか。……ま、当然だな」


 何を当たり前のことを、と言わんばかりに答える文奈。

 はぅ、と頭を抱えつつため息を漏らす柊二。


「じゃあ、例によって強引に無断でやるつもりか? 二度目はさすがにヤバいだろ、どうなっても知らねぇぞ」

「まさか。私もそこまでアホやないって。ちゃんと親にはキッチリ説明して、真剣に頼み込んだ。本気やってことをわかってもらえるまで誠心誠意、根気よく話した。学費やら生活費も自分で何とかするからって。……それでも渋い顔されたけどね」


 言って文奈は笑う。その表情に悲観的な気配が微塵も感じられず、言葉とは違ってうまく説得できたのだろうと柊二は思った。


「その様子じゃ説得できたんだろ。よかったな」

「うん。さっきの柊二くんの演奏を聴かせて、『ふたつのはんぶん』みたいな弾く人によってそれぞれ違う、いろんな想いがいっぱい詰まった曲を作りたいねんって。そうしたら親も入学を承知してくれた。多分、柊二くんの音に何か感じるものがあったんやろうね。せやから、ある意味決定打は柊二くんってことになるかな」

「ちょっと待て。説得完了はなのか? とんでもない賭けに出たな、オイ」

「それくらいせな、説得は無理やってんて」

「相変わらず無茶しやがる……。まあ、俺の演奏がお前の役に立ったんならよかったよ」


 文奈のためにと磨きをかけた演奏が、彼女だけでなく両親にも伝わったというのは、嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、少し複雑な気分だった。

 つまりはということに他ならないのだから。


「……なあ、ご両親は何か言ってたか?」


 なんとなくそれが気になって、柊二は思わずそんなことを口にしていた。


「ん? 柊二くんのこと? 私の彼氏やねんって紹介したら、お父さんがめっちゃキレとったけど気にせんでええよ」

「マジか……」


 あっけらかんと答えた文奈に絶望的なまなざしを向けて、柊二は暗澹あんたんたる気持ちになった。

 彼女の父が授業をサボって留年確定を隠していた娘を人前で殴り飛ばすような激情家だと印象付けられている柊二にとって、キレ散らかしているさまを想像するだけで恐ろしくなる。


(俺の演奏を聴いたってことは会場にいたんだよな。ここに来たりしないだろうな……?)


「あー、大丈夫。お父さんもお母さんも、もう会場におらんから。それに柊二くんのことも話して、ちゃんと認めてもらえるようにするし」

「なにとぞよしなに……」


 柊二が急に怯えた子犬のように周囲を警戒し始めたのを見てその心中を察した文奈は、べしべしと肩を叩きながら言って笑った。

 ほっと安堵のため息が柊二の口から漏れる。


「でも、そうか……。音楽はやめないんだな、文奈。それを聞いて安心した」

「一度は捨てようと思ったけど、そうせずに済んだのは柊二くんのおかげ。やっぱり音楽が好きで、捨てたくないって思い止まらせてくれたのが柊二くんの音やから。改めてお礼を言わせて。ありがとう」

「そうかしこまって礼を言われると照れるな……。まあ、親の許しも出たことだし、作曲の勉強、頑張れよ。応援する」

「もちろん」


 ニッと口の端を吊り上げて笑い、文奈は嬉しそうに芝居がかった仕草で両手を広げてやや上方に目線を上げた。


「頑張って勉強して、いい曲を作って……

「……は?」


 毎度のことながら唐突な宣言に柊二の思考が一瞬停止する。

 その反応が不服なのか、文奈は半眼ジト目で柊二を睨んだ。


「は? やなくて。私が曲に込めた想いを余さず音色にできるのは柊二くんしかおらんねんで。せやったら柊二くんが弾くしかないやん?」

「いや、ちょっと待て」

「せやからね? 

「ああ、そこに繋がってくるのか……」


 無茶で強引な展開に表情を強張らせ、柊二はげっそりと呟く。

 先ほどの「ピアノを続けるのか」という質問の答えがことにようやっと気づいたのだ。他の選択肢を奪い、自分の望む答えに進ませるために周到に計画し、忠実に行動していた文奈の相変わらずの策士っぷりとワガママっぷりにはため息すら出ない。

 しかし、それを続ける理由や目的にするのは悪くないと柊二は思っていた。彼女の音楽の中に当たり前のように自分がいる、それを望んでくれることはむしろ喜ばしかった。

 文奈が作る曲を弾けば、きっと彼女は嬉しそうに笑ってくれるだろう。

 柊二がピアノを弾く理由なんて、後にも先にもそれしかない。

 ただ、彼女の笑顔を見るためだけ。

 ずっと大切な人の笑顔を見ていられるのなら――返事は決まっている。


「やれやれ、だ。連弾を迫ってきたときみたいな強引さは半年経っても健在か。どうせ嫌だって言っても聞かないんだろ?」

「よくご存知で」


 即答。

 柊二は思わず噴き出してしまった。


「……わかったよ。お前の作る曲は全部、俺が弾いてやる」

「柊二くんなら、きっとそう言うてくれると信じてた」


 嬉しそうににぱっと笑って、柊二の頭をぐりぐりと撫で回す。

 お返しとばかりに文奈の頭を撫で返し、柊二は苦笑を漏らした。


「よく言う。俺がうんと言うまでゴネる気だったんだろ。調子のいいこと言いやがって」

「私ってそういう女やもん。ワガママでお調子者で……」

「自分勝手で、言い出したら聞かなくて、俺を振り回して。知ってるよ、それくらい」

「うん」


 柊二の言葉に大きく何度もうなずいて、文奈は純粋無垢な幼い少女のような明るさに満ちた微笑みを見せた。

 それは、今まで柊二が見た中で、最も綺麗で心が温かくなる笑顔だった。



 ――二人の想いは、この先も旋律に乗って奏でられ、紡がれていく。

 そこに、ピアノがある限り。

 そこに、互いに通じる気持ちがある限り。

 二人の半分が一つの心になって、ずっと続いていく――




          終

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二つの半分が奏でる音色 南村知深 @tomo_mina

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