第6楽章 第2節

 二人が旧音楽室を出たときにはもうすでに辺りは暗く、針金のような細く白い三日月が黒い空の雲間にその姿を刻んでいた。

 濃い灰色の雲が多いせいか星はほとんどなく、昼間の快晴がウソのように寒々しく見えた。実際、日暮れとともに昼間の暖気が急激に失われ、肌を撫でる風も冷たくなっていた。ひょっとしたら明日か明後日は雨になるかもな、と柊二は思った。


「さすがにこの時期は日が暮れると寒くなるな。大丈夫か?」

「うん。さっきの熱がまだ残ってるから」

「さっき……」


 何気ない文奈の一言で、柊二の顔が真っ赤になって蒸気爆発を起こした。

 自分がそうしたいと思ってしたことだし、文奈もそれを望んでくれたし、あの雰囲気ではそうなってもおかしくない。そう、自然な流れだ――と自身に言い訳するが、それでも度を超えた赤面は当分おさまりそうになかった。

 今が夜でよかった、文奈に見られなくて済む、と心底思う柊二であった。

 後片付けで残っている生徒がまだいるらしく、ちらほらと本校舎の教室に明かりが灯っている。それらを横目に、二人は言葉を交わすことなく、ただ寄り添って歩いていた。


「祭りのあと、か……」


 ぽつり、と柊二が呟く。

 昼間、文化祭の最中はグラウンドにも校舎にも人が溢れ返っていたのに、終わってしまうとそれが一気に消えてしまう。

 人の密度とともに祭りの達成感と高揚感が薄れていくようで、少し寂しい気がした。


「まだ、私らの祭りは終わってへんよ」


 柊二の寂寥感せきりょうかんを察し、文奈は言った。少し目を細め、潤んだ瞳でパートナーをじっと見つめて微笑んでいる。

 その儚くも美しいそれを間近にしたせいか、頬の熱さがさらに増したようで、柊二は紅潮している顔を見られないよう慌てて暗い空を仰いだ。


「そうだったな。また目一杯練習しないと」

「今度はミスしたらアカンからなー。ビシバシ鍛えるで」

「おうよ。耐えてみせるぜ」


 ごまかすように大袈裟な仕草で天に拳を突き上げ、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。

 その様子がおかしくて、「なにそれ、世紀末覇者のマネ? 悔いなしにはまだ早いで?」と文奈は大笑いした。

 打ち上げをしているらしい十数人の男女の笑い声が響く学食に立ち寄り、二人は温かいココアを一つだけ買って学校を出た。半分ずつ分けて飲んだココアが人生の中で一番美味しく思えて、文奈の顔に自然と笑みがこぼれた。それを嬉しそうに柊二が見ている。

 どちらが言い出したわけでもなく、ごく自然に手を繋いで、道路に落ちる街灯の白い輪をいくつもいくつもくぐった。ずっと二人は無言のままだったが、今は一緒にいてお互いの手の温もりが感じられる、ただそれだけでよかった。


 駅の明かりが見え始め、淡い光のカーテンにぼんやりと包まれたような改札口に近づくと、遠くから電車の車輪がレールに軋む音が響いてきた。


「じゃ、また明日……は代休やね。明後日の放課後に」

「おう」


 繋いだ手を解き、照れくさそうに笑んだ文奈は、小さくぱたぱたと手を振りながら改札を通った。そのタイミングを計ったようにホームに電車が滑り込んでくる。ラッシュの時間も過ぎて空席だらけになっている車両に乗り込み、ドアのそばに立って、まだ改札の向こうにいる柊二を見た。

 今までは改札を通った時点でさっさと帰ってしまっていた柊二が、今日はじっと自分を見送ってくれている。そのことに妙な恥ずかしさを感じて、ドアが閉まると同時にそれをごまかすように顔の前で手を振った。

 すると、ゆっくりと後ろに流れていく柊二が少し視線をそらしながらそれに応えたので、文奈は思わず噴き出してしまった。今まで手を振ってくれたことなんてなかったのに、あんな可愛いことをするようになったかと思うと笑わずにはいられなかったのだ。

 それが駅舎に遮られて見えなくなる寸前、柊二の顔が怒りに変わるのがわかって、次に会ったら開口一番に文句を言われるんだろうなと思った。

 しかし、なぜか今はそれが嬉しくて、心が弾むのを止められなかった。

 窓の外に溢れる色とりどりの照明と夜の黒が矢のように後ろへ飛んでいく。それをぼんやりと眺める文奈の顔が、窓ガラスにうっすらと映っていた。


「……ぅぁ」


 どうやら気づかないうちに思い切りニヤけていたらしく、慌てて真顔を作った。自分はこんなにもオトメだったかと自問してしまうくらい、だらしなく緩みきった表情だった。好きな人に自分の気持ちを受け入れてもらい、好きだと言ってもらえたのだから致し方ないのだろうが。

 ふとそのときのことを思い出して、無意識に指で唇をなぞる。


「…………」


 そこで――気づいた。

 感触は鮮明に覚えているのに、そのとき感じた温度をまったく思い出せなかった。緊張で暴走気味だった早鐘を打つような胸の鼓動も、彼に触れられて灼けるような熱さを感じたこともはっきりと覚えているのに、柊二の温かさだけが綺麗さっぱり感覚から抜け落ちていた。記憶だけが残って、肝心なものが消滅している――夢でも見ていたのかと錯覚するほどの違和感。


(なんやの? この感じ……)


 妙な焦燥が湧き上がってくる。ザラザラした何かが意識の中でうごめいて、不快で嫌な感じがどんどん広がって背筋が冷えていく。


(なんか……怖い……)


「柊二……」


 文奈は無意識にその名を呟いていた。

 ガラスに映る自分の瞳は薄茶色ではなく闇と同じ色をしていて、見つめていると無明むみょうの底へ引きずられて落ちていくような気がした。ちょうど、ピアノの天板を覗き込んだときと、まったく同じ感覚。

 柊二……ともう一度名を呼び、目を閉じた。

 そこに浮かぶのは、大切で愛しい人。自分を好きでいてくれる人。

 その人が真面目な表情で、大丈夫、と力強くうなずいてくれた。

 それだけで胸の奥が温かくなり、全身にその熱が広がっていった。

 なんや……温度、思い出せるやんか……と文奈は安堵した。

 あまりにも嬉しいことがありすぎて、少しばかり不安になっていただけなのだと、騒ぐ気持ちを落ち着かせた。

 やがて電車は降りる駅に近づき、車両内の数少ない乗客の何人かが慌しく席を立ち始める。

 それを待っていたかのように減速し、車窓の向こうを流れる光の川が緩やかになっていった。少しずつ速度が落ちて、耳障りな金属音が足元から響く。

 もうすぐ停車だな……と思ったところで、唐突に車両がガクンと揺れた。文奈は少しよろけて倒れそうになり、慌てて手摺に掴まって体勢を立て直す。

 三日に一度くらいのサイクルで停車がヘタクソな運転士に当たるので、常日頃から急制動に備えているつもりだったが、今日は考え事をしていたせいかすっかり油断していた。

 聞き取りづらいアナウンスが流れ、圧縮空気の音と共にドアが開くと、その前で待機していた数人に続いて灰色に汚れたコンクリートのホームに降り立つ。

 暖かな車内から野ざらしの冷えた空気の中へ出て、全身を撫でまわすような冷たさに思わず身震いした。

 しかし、身体の反応とは逆に、不思議と寒いとは思わなかった。

 先ほどまで意識を埋めていた不安感は急制動のショックでどこかに吹き飛んで、何を感じていたのかさえも思い出せなくなっていた。残っているのは、寒風でも冷ますことのできない温かな気持ちだけ。

 今だけはヘタクソ運転士にちょっとだけ感謝しよう、と文奈は思った。

 ドアが閉まって次の駅へ向かう電車を見送り、朝の通学時に見かける名も知らない顔見知りのサラリーマンの猫背を追うように出口へ向かって改札をくぐる。

 駅前は薄暗く、人通りも少なかった。

 反対側の出口の向こうは商店街や大通りが目の前に広がる賑やかな場所になるが、文奈の自宅はその正反対の方向にある住宅街の真ん中だった。そちらには商業施設がほとんどなく、いつも静かでひっそりとしていた。

 家までの道は過剰なまでに街灯が設置されて明るく、健康のために夜間のウォーキングに励む主婦の団体や犬の散歩をする人が多い。夜でも明るく人通りがあるというのは安心できるよね、などと考えつつ、曇って月も隠れてしまった面白みのない暗い空を見上げ、帰路をゆっくりと歩いた。

 早く帰って空腹を満たしたいところだが、下腹の辺りに少しばかり違和感があるのでいつもよりスローペースでしか歩けなかった。


「……歌うときに気合を入れすぎて、おなか周りの筋肉が悲鳴を上げただけや。それ以外の理由やない。うん。そうに決まってる」


 誰にともなく、文奈はそんな言い訳じみたことを赤面しながら呟いた。

 普段より時間をかけた帰り道の先に見えた自宅の門をくぐり、玄関のドアを開けた。

 この賃貸の一軒家に引っ越してきて一年半ほどになるが、未だにレバー式のドアノブには馴染めずにいる。ケガで握力が落ちた文奈のために父が大家の許可を取ってわざわざ取り替えたものなのだが、右利きの文奈はケガをしていない右手でドアを開けるので無駄な出費だったと内心で文句を言うのがクセになっていた。


「ただい……ま……?」


 上がり口で靴を脱ごうとうつむき、妙に足元が暗い気がしたので顔を上げると、そこには天井照明を背にした文奈の父が仁王立ちしていた。表情は逆光でよく見えなかったが、なんとなく怒っているような気配がした。


「ど……どうしたん? お父さん」

「おかえり文奈。遅かったな。ところで少し話がある。着替えたらすぐにリビングに来なさい」

「う、うん……わかった」


 父の声色は普段と変わらない。

 しかし、気配は明らかに違っていた。


(……私、なんかしたかな……? いや、けども、バレてるはずないし……。ひょっとしてドアノブの文句、口に出てた……?)


 そんなことを思いつつ、言われたとおり自室で着替えてリビングに向かう。


「う……」


 一歩入ったところで異様な雰囲気が漂っていることに気づき、思わずうめき声が漏れた。

 いつもは家電量販店の店員の口車に乗せられて購入した大型のテレビから、それほど面白くないバラエティ番組の賑やかな音声が垂れ流されているが、今日のリビングはそれが沈黙しているせいで不気味に静まり返っていた。

 それだけではない。

 父と母がきちんとソファに座り、押し黙ったまま文奈を待っていた。

 これから説教タイム開始という張り詰めた空気が部屋中に満ち満ちている。

 文奈は毎日見ているはずの部屋にもかかわらず、他人の家に居るような錯覚を起こした。


「そこへ座って」


 いつも能天気で鬱陶うっとうしいくらいにテンション高めの母からは想像できない無感情な声。その静けさが言いようもなく恐ろしい。

 文奈は黙したまま素直に両親と対面するソファにかしこまって腰掛けた。

 父は父で、今まで見たことがない真剣な表情をしていた。

 両親の様子に気圧され、ヒリヒリと干上がるように喉が渇いていく。

 電車の中での嫌な予感はこれか、と文奈は思った。

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