第4楽章 第2節

 だが、絶望に打ちひしがれるふみの前に、がわ柊二しゅうじが現れた。


 彼の演奏は話にならないくらい下手で、手抜きで、どうしようもなかった。

 しかし、その音色に乗って届く何かが、暗く狭い心の闇に沈む文奈の気持ちを動かした。彼が自分と同じように、ピアノに対して大きな心の傷を持っているとわかった。


 だから、柊二と一緒に弾くことを選んだ。

 彼となら、何かが変わるかもしれない。

 彼となら、諦めたモノを取り戻せるかもしれない。

 そう、思った。

 理由なんてわからない。わからなくていい。

 そう思った自分を信じた。それだけで十分。


 『ふたつのはんぶん』。


 今、柊二と二人で奏でる旋律。

 文奈はこの瞬間を、この楽しさを、ずっと願っていた。

 ケガをしてから諦めていたつもりでも、ずっと求め続けていた。

 この旋律を。

 この時間を。

 この刹那を――



 わずか三分。

 文奈の、柊二の想いが、音色となって旧音楽室を満たした。

 その想いは、聴いていた者に伝わっただろうか。

 いや、最も伝えたい相手――肩が触れ合うパートナーに届いただろうか。

 演奏が終わり、音の余韻を残さないようにミュートをかける。途端に静まり返る旧音楽室は、まるで時が止まったかのような静寂に沈んだ。聴衆の誰かが小さく息を呑む音が、妙に大きく響く。


「…………」


 鍵盤から手を離した柊二は、悔しそうに唇を噛んでいた。

 あれだけ練習したのに、いつもと同じ場所でミスをした。

 文奈が上手くサポートしてくれたおかげで、よほど音楽に通じている人間でなければわからない程度のミスでやり過ごした。

 しかし、失敗は失敗だ。

 柊二は震えながらうつむき、悔しさのあまり立てなかった。

 聴衆へ……いや、文奈に顔を向けることができなかった。

 完璧に弾けないだろうとわかっていてもやはり心のどこかでそれを求めていて、それが叶わなかったという悔恨かいこんが彼を動けなくしていた。

 文奈のために完璧であろうとしたのにミスをして、それを彼女にカバーされて。

 自分の情けなさや力量のなさを悔やんでも悔やみきれなかった。


「大丈夫、上手く弾けてたよ」


 そんな柊二の耳元で、ぽつり、と文奈は囁く。

 そしてパートナーの手を取って立ち上がり、自分たちは完璧に弾き切ったと言わんばかりの自信に満ちた微笑みを湛えたままで、深く聴衆にお辞儀した。

 その瞬間。

 旧音楽室が震えるほどの惜しみない拍手が轟いた。


「……ね?」


 悪戯っぽく笑った文奈がウインクすると、柊二はようやっと強張った顔に笑みを浮かべた。



          ・



『伸ばした手に触れるモノ』。

 柊二のオリジナル曲に付けられた題名。

 秋の夕暮れ。

 募る想い。

 そんな気持ちを言葉にして。

 文奈は、歌う。


 願いを叶えてくれた、大切な人のために。



          ・



 イントロのメロディがゆっくり静かに旧音楽室に舞う。

 ピアノを弾く柊二に緊張はない。

 指も滑らかに動く。

 完璧な演奏でなくてもあれだけの拍手をもらえたんだという気持ちが、緊張も恐怖も悔いも全て吹き飛ばしてしまった。それが演奏に輝きを与える。

 そうして、流れるように鍵盤の上で踊るパートナーの手を、文奈は眩しそうにじっと見つめていた。

 前奏が終わり、聴衆と向き合った文奈がマイクを使わない自分の声アンプラグドで――歌う。


   もう戻らないと わかったその時

   何もかもが 壊れてしまった


「っ⁉」


 柊二は表情を強張らせた。

 練習で歌っていた歌詞と、今、文奈が紡ぐ言葉が違っていたのだ。

 決して他の歌詞と間違えているわけではない。初めて聴く詞だった。

 どういうことだ? 一体何が?

 動揺は、わずかに伴奏に影響を及ぼした。

 それに気づいた文奈は少しだけ振り向き、うなずいた。


 ――大丈夫だから――


 薄い茶色の瞳が確かにそう告げた。

 冗談を言うときの悪戯いたずらっ子の目ではなく、彼女が自身の辛い過去を語った上で見せた笑顔と同じ光をしていた。

 柊二はその光を信じ、そのまま伴奏を続けた。信じてもらえると疑わない彼女に応えてやることが、今すべきことだと悟って。


   そこには声が 溢れているのに

   聴こえる音は からっぽの声

   空虚な心に 流れるメロディ

   踊る音色は 響かず消えた


 綴る詞は、文奈自身を表していた。

 ケガでピアノを失った彼女が感じていた本心を歌詞コトバにしたものだと、柊二にはわかった。

 夢見ていたピアノを諦めなければならない悔しさ。

 好きな曲を弾けないやり切れなさ。

 心の全てを切り取られてしまったかのような喪失感。

 穏やかな湖水のごとく、どこまでも澄んだ歌声に綴られた詞は、透明な塊となって凍てついた水底に沈んでいくようだった。


   そのとき聴こえた

   小さなその音

   そっと流れる

   ココロの雫


   どうして私は泣いているの?


   寂しいからじゃない

   悲しいからじゃない

   嬉しいから

   見つけたから


   求めていたものが

   見つかったから


   アナタが全部 持っていたから


 気づけば。

 文奈は、じっと柊二を見つめて歌っていた。

 聴衆に横顔を見せて。

 少し潤んで揺れている瞳は、柊二だけを見ていた。

 そして――笑っていた。

 綺麗に。

 嬉しそうに。

 楽しそうに。


 柊二は、そんな彼女に微笑み返した。

 優しく。

 誰よりもあたたかく。



 そうして。

 たった二曲だけの短い演奏会は、二度目の雷鳴のような拍手喝采で幕を閉じた。

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