第3楽章 第4節
戸惑う
「次は
「…………」
言いたくない――
まずそれが柊二の意識を占めた。
彼女のように、もう過ぎたことだからと笑えるほど自分は強くない。
文奈と違って、どうしようもなく抗えない事態に直面して、離れたくないのにピアノから遠ざかるしかなかった、というような深刻な理由があるわけではない。彼女に比べれば本当にどうでもいい、取るに足りない理由――いくら頑張っても叱られるだけだったから嫌いになった、というものしかない。
その程度のことなら、同じように軽口を叩いて「親に強制されて嫌々やってたら全然伸びなくなって見限られちゃったんだよね」と笑い飛ばせばいい……と思う。
嫌だと言いながらもピアノを弾く以外に何もできず、放課後に旧音楽室に通って嫌いなはずのピアノを弾いているという矛盾も、自虐混じりに笑ってやればいい。
だが、それは柊二の小さなプライドと意地が許さなかった。自分をずっと苦しめているものはそんな簡単で気楽なものだったと認めることなどできない。認めてしまえば、本当に自分はつまらない人間だということになるから。
だから、話すことはできないと口をつぐむのだ。
しかし同時に、自分だけ秘密を話さないのは卑怯だという気がした。
先に文奈の過去に踏み込んでおいて、逆に踏み込まれたら拒絶するというのは間違っている。
少なくとも、思い出すのも辛いはずの
「俺は……」
柊二はミルクもシロップも入れていないアイスコーヒーを一息で半分近く飲み下し、その強烈な苦味と香りで沈む気持ちを叩き起こした。
「ピアノは親に無理矢理やらされてたんだよ。けど、なかなか上手くならないからってあっさり見限られた。やめたいと言っても聞いてもらえず、六年も辛いレッスンを強要しておいて、見込みがなくなったからとあっさりポイ、だからな。それでピアノが嫌いになったんだ」
たったこれだけのことを口にしただけでも、心の奥にあったドロリとした暗い感情がざわつきうごめいて、理性をじわじわと揺さぶる。文奈のように長々と昔を思い出していたら、おそらく平静ではいられなかっただろうと柊二は思った。
それを抑えつけるために残ったコーヒーを一気に空にする。だが二度目の苦味は先ほどよりもずっと弱く、このままでは暴走を抑えられずにその感情を起こさせた文奈を攻撃してしまいそうな気がした。
柊二は店員を呼んで特段に苦味の強いエスプレッソを注文し、ささくれようとしている心を落ち着けるために大きく息を吐いた。
文奈はうつむく柊二を見つめ、そんなことやろうと思った、と呟いて、続く言葉を探すように少し間を取った。
そのタイミングを計ったかのようにBGMが途切れる。しばし無音の時間があって――次の曲が天井近くにあるスピーカーから流れて、沈黙に包まれた二人の間を縫った。
「ええよね、『夢のあとに』。私の好きな曲の一つ」
文奈がひとりごちると、ピアノとチェロが織り成す美しく感傷的な旋律が古びた狭い店内を舞い、ゆるゆると泳ぎはじめた。
それを楽しむように目を閉じ、文奈はじっと音楽に耳を傾けながら柊二が話せる状態になるのを待つ。
「お待たせしました」
店員がエスプレッソを運んでくると、柊二はやけどするのも気にせずに一気に喉へ流し込んだ。店員はその様子を不思議そうに見ていたが、なにやら事情がありそうだと察し、邪魔しないようにと厨房へそそくさと去って行った。
その背を見送った文奈は、テーブルに落ちたグラスの水滴を指で伸ばしながら小さく息をつく。どうやら柊二から話そうとはしないということがなんとなくわかったのだ。
「無理にやらされてたから嫌い……か。せやね、樋川くんの演奏からは感情が伝わって
「…………」
普段、
しかし柊二は意外だとか腹が立つとかいうことはなく、言われた通りだなと思っていた。
しぶしぶやっていたレッスンで「感情を込めろ」と言われても無理な話で、見せかけの技術に頼った感情しか出ないのは当たり前である。心から気持ちを込めて弾きたいと思うほど演奏が楽しくなかったから。
「一つ訊いてもええ?」
「……ああ」
柊二がうなずくと、きゅっ、とココアのグラスの縁を指でなぞって問いかける。
「私と連弾するの、楽しい?」
「……どうだろう」
曖昧に返事を濁し、考える。
ピアノは嫌いで、弾いていても楽しくない。上手く弾けないからということもあるが、弾くこと自体を楽しいと思うことはない。
これはいつもと同じ、何も変わらない。
しかし、文奈といるとなぜか練習に集中できている。うまく指が動かなくても、ミスや手抜きをバッチリ指摘されてもやめたいと思わず、むしろ上手く弾けるようになりたいという気持ちになる。
それはなぜか。
多分、きっと――
「私、樋川くんのこと好きやで」
「んぶッ!」
考え事をしながら飲んだ水を、文奈の唐突な告白で思いっきり噴き出した。
口につけていたコップに噴き戻す形になったので正面の文奈にぶちまけずに済んだが、柊二の胸元やテーブル上はちょっとした惨状になっていた。
「なっ……なななななななナニをおっさいますやらッ⁉ 冗談だろ⁉」
「ホンマのことやもん。しゃーないやん」
噴き散らされた水をおしぼりで拭き、文奈はあっけらかんと返した。その顔にはウソのような本気のような、どちらとも言えない笑顔が貼り付いていて、彼女が何を思ってそんなことを言ったのかを窺い知ることはできない。
「私と連弾するのが楽しいって思うには、私のことを好きになるのがええと思うねん」
「……どういう理屈だ……それは……」
口の周りに付いた水滴を拭いつつ、柊二は憮然と呟く。
そんなに変なことかな、と文奈。
「ま、理屈はどうあれ、連弾が楽しいって思ってないと上達せぇへんと思うんよ。それに二人の息を合わせなアカンし。この曲はお互いが完璧にシンクロしてやんと綺麗に聞こえへんし。せやろ?」
「確かにそういうことがある気がしないでもない。……のか?」
一理あるようでいて、単に上手く言いくるめられているだけのような気もする。どちらとも言い難く、柊二は素直に同意できなかった。
文奈はその曖昧な態度を強引に完全同意と解釈したらしく、力強くうなずいた。
「ん。そういうわけやから。私のこと、好きになってな?」
「いや、だから、その思考の飛躍はありえんだろ……。何考えてんだよマジで……」
笑顔で迫られ、柊二は返答に困ったまま硬直していたのだった。
・
――好きになってくれと言われても困る。
無理なんだよ、それは。
今から好きになるなんて。
無理なんだ。
旧音楽室で出会ってから、たった二週間。
肩が触れ合う距離で毎日数時間を過ごした。
たったそれだけで、放課後が待ち遠しくて、授業をサボってでも早く旧音楽室に行きたいと思うようになった。
とにかく文奈と練習したいと思った。
ピアノが嫌いなのは相変わらずだ。
でも、ピアノの前にいれば文奈と一緒にいられる。
文奈と一緒なら、ピアノも楽しいと感じる。連弾も楽しくやれる。
嫌いで仕方なかったピアノが、何よりも大切だと思える。
そのことを、さっきの文奈の問いかけではっきりと自覚した。
上手く二人のリズムが合ったとき、彼女は無邪気な子供のように、本当に嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見るのが何よりも嬉しくて、楽しくて――
柊二は思う。
全ての色を失った灰色の世界に咲く、色彩豊かな一輪の花のような――何よりも鮮烈で麗しい文奈の笑顔のために、ピアノを弾きたい。
俺が弾けば、彼女が微笑むから。
彼女がそばにいてくれるから。
彼女の笑顔が見たいから。
ただそのために、ピアノを弾きたい――と。
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