第3楽章 第3節

 上に乗った生クリームを溶かさずに飲むココアは想像以上に苦く、しかしそれが今の心境にマッチしているようで、ふみはなぜかその苦味を心地よく感じた。


「私が右手のパートをやってるのは、。楽譜を全部覚えてないとか、練習が足らんとか、そういうんやなくて」


 と左手をテーブルの上に差し出した。

 乱暴に触れるとすぐに折れてしまう繊細なガラス細工のような、白く小さな手。力強く生き生きと鍵盤の上を舞い踊る右手とは違う、細く頼りない人差し指と中指の付け根にある大きな傷痕が否応にも目に付く。


「私は小っさいときからピアノをやってて、将来はピアニストになって、大勢の人の前で演奏するのが夢やってん。せやから有名な音大入学者数が段違いに多くて、著名な演奏家を何十人も輩出してる芸術科のある高校に進学するために、わざわざ関西から家族で引っ越して来た。親の仕事は転居の自由の利く職業やったから、その辺も問題なかった。入学してから、私の勉強もピアノの練習も順調そのものやった」


 上手くいっていることを語るには不似合いな苦々しい表情で、しかし口調はあくまでお気楽な調子を崩さず、文奈は一呼吸置いて言葉を続ける。


「けど、去年の夏休みのこと。自転車に乗ってるときに、急に前が見えんくらいの豪雨に遭った。瞬く間にずぶ濡れになって、これはアカンって急いで帰ろうとスピードを上げた瞬間、濡れたマンホールの蓋でハンドルを取られて滑った。それはもう、お笑い芸人のコントみたいに派手にコケて吹っ飛んで、アスファルトの地面に思い切り左手を叩きつけた」


 こんな感じかな、と手の甲をテーブルにごつんと落とす。それだけで文奈の手が砕けてしまうのではないかという錯覚に、柊二しゅうじはビクッと身体を震わせた。


「やってもうた、て思った瞬間に意識が途切れて、気がついたら病院のベッドの上やった。自分がどういう状態やったかはそのとき母親から聞かされて初めて知った。中指は脱臼と剥離骨折、人差し指は折れるだけやなしに激しく地面に擦り付けたせいで、ちぎれて取れる寸前やったって。ついでに右足もポッキリと折れてた。コケたときに頭打ってたからかな、痛みは全然なくて、そこまで酷いとは思わんかったよ」


 と文奈はへらへらと不真面目に笑った。

 想像を超える痛々しい話を他人事ひとごとのようにだらしなく語るその様子に、柊二はどういう顔をすればいいかわからなかった。ただ同情するような反応はダメだと直感し、こちらも天気の話でも聞いているような何気ない態度で黙することにした。少なくとも、この話が終わるまではそうしようと決めた。


「これもあとから聞いた話やけど、コケた直後に近くにおった誰かが救急車を呼んでくれて、すぐに病院に連れて行かれて緊急手術した。ありがたいことに搬送が早かったおかげでそれは成功して、足の骨も取れかけてた指も上手いことくっついて動くようになった。けど、手術した指は二本とも握力が落ちてしもて、かろうじて物を掴めるかな、ってくらいにしか動かんかった」


 ココアのストローをつまんで持ち上げ、ストンと落とす。それを三度繰り返して、あのときはこんな感じやったわ、としみじみうなずく。


「それでもリハビリで元に戻ると信じて頑張った。ピアノ弾きたいから、必死になって頑張った。その甲斐もあって、年明けくらいには日常生活に支障がない程度に回復した。進級できるようにと学校が病室でできる課題を用意してくれて、それもキッチリ仕上げた。けど――」


 言葉が途切れ、文奈の口が真一文字に結ばれ、目元にぐっと力がこもる。そのときのことを鮮明に思い出してしまったのか、笑って話せるラインを越えてしまったようだった。

 少し、無言の間があった。

 柊二は何も言わず、わずかに視線を落とした。テーブルの上に置かれた白い両手が視界に映り込み、右手の指が左手の傷を撫でているのが見えた。


「ピアノはもう無理やて医者に言われた。左手の機能は以前のレベルにはもう絶対に戻れへん、って。それはやった。ピアノ専攻クラスやのに、それが弾かれへんようになったら芸術科にいる意味がなくなる。同じ芸術科音楽クラスには、楽器製作とか調律師とか作詞作曲なんかの音楽に携わるコースはいろいろあるけど、そんなんにはまったく興味あれへんかった。私はただピアノが弾きたいだけ。それ以外に何もない。でも、それができんようになったから……二年から普通科に移ったわけ。……なんでスッパリ諦めて地元に帰らんかったかは正直自分でもわからんけど、そのときは根拠もなしに『今この高校を辞めたら死んでも後悔する』って思ったから、意地でもここに居残るって親にゴネた。そうしたら、普通科でもいいから卒業まで通えばいいと親は言ってくれた」


 掘り起こした辛い過去を少しでも早く放り出そうという気持ちの表れなのか、早口で一気に言って、文奈は足りなくなった空気を大きく吸い込んだ。そしてゆっくりとそれを吐く。


「……で、普通科に移ったはええけど、ピアノが弾かれへんショックが自分で思ってた以上に大きくて。覚悟して受け入れたつもりでも、やっぱり落ち込んでなんにもやる気せぇへんようになって……何もかもが面白くなくなった。好きやった学校も面白くなくなった。辞めたくないって言うた手前、登校せんわけにもいかへんから毎日ちゃんと学校に来るようにしてるけど、まぁ、樋川くんも知っての通り、授業はほとんどサボってる。九分九厘、卒業どころか三年にもなれんやろうなぁ。せめて卒業くらいは、ってワガママ言うて通わせてもらってんのに、そんなことが親に知れたらシバかれて終わりやね。どうしよう?」


 冗談めかして肩をすくめ、文奈は泣きそうな顔のまま豪快に笑い飛ばした。


「…………」


 対する柊二は、自分から訊いておきながら想像をはるかに超えたヘビー級の返答に何一つ返す言葉が思いつかず、ただ沈黙していた。先ほどから続けているいい加減な態度を取りながら聞くのがやっとだった。

 文奈も柊二の返事がほしいわけではなく、一方的に話し続ける。


「終わり――うん、私は別に終わってもよかった。何の根拠もなしにここに残るってうただけやし、それがわからん以上はどうでもよかった」


 はは、と自嘲するように吐き捨て、天井を仰ぐ。


「ホンマにどうでもよかった。そう思ったはずやけど――。ワガママで残ってよかったと思うことが見つかった。無意識に私はそのことを予知して残ったんやないかと思うほどやったね。もうこれは運命やとさえ感じた」


 話すうちに表情が変わり、心の底から嬉しそうに文奈は微笑んだ。少し照れくさそうに見えるその顔には先ほどの曇りはもうどこにもなく、落ち込んでいる様子など微塵も感じさせなかった。

 彼女は『ピアノを弾けない』という事実を、最早過去のこととして完全に受け入れてしまっていた。

 それがわかる、明るい笑み。


「…………」


 そんな文奈にどう声を掛けていいのかが未だわからず、柊二は黙って言うべきこと探していた。

 そんな話をさせてしまったことを謝ればいいのか。乗り越えられてよかったと同じように喜べばいいのか。

 迷いと焦燥がじわじわと広がり思考が空回りする中、ただひとつあるのは、まずいことを訊いてしまったという自責の念だけ。

 わざわざ音楽のために遠い土地へ引っ越してきて、唐突にその目的がなくなってしまった。

 大切にしてきた夢が、壊れて消え失せてしまった。

 もっと落ち込んでいてもいいはずだった。笑えなくなっていてもおかしくないはずだった。楽しくもない学校に惰性で来て、授業に出もせず一人で旧音楽室にこもり、ただ時が過ぎるのを待つだけの日々。そんな無為な毎日では、自身の存在意義すら見失ってもおかしくないはずだった。

 それなのに、どうしてこんなに綺麗に笑えるのだろうか。触れると壊れそうな細く華奢な彼女の中に、なぜそこまでの強さがあるのか。

 彼女を支えているものは――『見つけた』ものは一体なんなのか――


「今度は樋川くんの番やね」

「え? 何が……?」


 考えることに没頭していたせいか、柊二は一瞬言われたことが理解できずに焦って問い返した。

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