第3楽章 第1節

 文化祭が一カ月後に迫っていた。

 オリジナルのほうはもともと完成していたようなものなので、二人で考えた間奏のピアノソロを追加し、アレンジを加え、ふみが書いた歌詞をつければ事足りた。

 しかし、連弾のほうは思ったより難航していた。


「うーん……アカンねぇ……。どうしても運指で遅れるところがあるんやね」

わりィ……」


 文奈の口から漏れたダメ出しに、柊二しゅうじは疲れた顔でうなだれた。

 練習を始めて二週間、柊二は文奈にまったくついて行けずに苦労していた。

 もともと連弾などやったことがなく、真面目に練習するのもピアノをやめて以来である。ただなんとなくで弾いていた期間が長いだけに、真剣な練習はなまった柊二の身体に悲鳴を上げさせた。特に、忘れたはずのレッスンの辛さを思い出してからは、トラウマ的な何かで精神も参っていた。

 参っていたが……不思議と柊二にはこの練習に対しての嫌悪感がなかった。

 相変わらずピアノは嫌いだし、疲れるし、楽しくはない。

 しかしながら、なぜか『弾くのが嫌だ』とは思わなかった。

 そう思わないせいで、文奈にダメ出しされても反発せずにそれを素直に受け止めることができて、こうして続けていられた。


「表情つけるのはまだええから、とにかく今は私に合わせて」

「…………」


 その言葉を聞いているのかいないのか、柊二はじっと目を閉じて左手を鍵盤の上に走らせ、一人でベースパートをひたすら繰り返した。

 いつも失敗している箇所をゆっくり弾き、運指を確実にしつつ少しずつテンポを上げ、それが滑らかになるまでひたすら反復練習する。

 楽器練習の王道である。

 しかし……


「くそっ!」


 一向に運指が安定せず、音色が揺れてしまうことに苛立ちを抑えられない。

 一か所を意識すると他の部分で失敗する。全体の繋がりを意識すると遅れてしまう。ベースパートはとにかくリズムキープが必要で、文字通り土台ベースが不安定では文奈のパートが生きてこない。弾き始めに比べれば修正点は以前より減ったものの、まだ課題は四か所もあり、柊二の問題は山積み状態だった。


「…………」


 文奈はその様子を肩が接する隣でじっと見つめている。

 パートナーが焦り出しているのが自分のことのように感じられた。

 上手く弾けずに苛立つ柊二の気持ちは痛いほどよくわかる。

 思うように指が動いてくれないもどかしさは誰よりもよく知っているから。

 そういうもどかしさを強く感じた経験があるから。


がわくん。今日はこのくらいにしよっか」


 演奏を続ける柊二を邪魔するようにわざと不協和音を鳴らし、文奈は立ち上がった。


「なんだよ」


 上手く行かない焦りをそのまま表情に浮かべた柊二は、隠そうともしない尖った声で言い返し、文奈を睨むように見上げた。


「何言ってんだ。今日はまだ始めたばっかりだろ。文化祭まで時間がないし、ちょっとでも練習しなきゃ間に合わないだろ。……特に俺は」

「ええねん。今日はもうええねん。たまには息抜きせんとしんどいし。それに、経験あると思うけど、ぐっと詰めてやった後にちょっと間を空けたら感覚が変わって、びっくりするくらい弾けるようになったりするやん?」

「…………」

「な?」


 文奈はちょこんと小首を傾げ、遊んでくれとせがむ子犬のような表情で微笑んだ。その奥から少し潤んだ薄い茶色の瞳が優しく柊二を見つめている。

 その無垢な笑みで、柊二は無意味に焦り苛立っている自分に気づいた。こういうときにムキになるとかえって逆効果になると自身の経験から知っていたはずなのに、それすらも思い出せないほど思いつめていたのだといまさらながら自覚した。

 すうっと大きく息を吸い、ゆっくり吐く。

 それを二度繰り返して、ようやく肩の力が抜けた。


「そうだな……少し根を詰めすぎていたかも。ちょっと休憩しよう」

「そうそう。じゃ、そういうことで」


 ぱたん、と鍵盤の蓋を閉め、文奈はパートナーの腕を引っ張った。


「これからどっかに遊びに行こ。時間余ったから」

「は? 遊ぶ? 休憩だろ?」

ちゃうて。今日はここまでにしよって言うたやん」


 数分の小休止だと思っていた柊二と、練習自体を休もうとしている文奈。認識の違いにキョトンとしながら互いの顔を見合う。


「いや、だからって練習を放り出して遊びに行くとか……」

「なんやの、私とデートするのが嫌なん? こんな美少女とデートできるなんてラッキーやと思わへんの?」

「デ……っ⁉」


 まさかこの娘からそんな単語が飛び出してくるとは思わず、柊二はその意外性に思いっきり驚いて『美少女』発言にツッコミを入れるのも忘れ、バネ仕掛けのおもちゃのように勢い良く立ち上がった。

 連弾で身体が触れ合うことを気にする素振そぶりがまったくなかったせいか、そういった異性を意識するという思考形態はないのだと勝手に思っていたのだ。

 そのせいで、


「まさか、川代かわしろの口からそんな乙女な言葉が出るとは驚きだ。雪でも降るんじゃないか?」

「…………」


 つい冗談めかした言葉が口からついて出た。意図しない皮肉っぽい笑みのオマケつきで。

 だが、笑われたほうは無言で顔を伏せてうなだれるだけだった。先ほどまでの軽い雰囲気が鳴りをひそめ、どんよりとした何かが辺りにじわじわと広がっていく。


「川代……?」

「…………」


 呼びかけに返事はない。ただ沈黙が返ってくるのみだった。

 柊二は笑った顔を硬直させ、何やら周りの空気が重くなりつつあることに気づいた。うつむいた文奈の表情は見えないのに、少なくないショックを受けているのが気配でわかった。心なしか、華奢な肩がふるふると震えているようにも見える。


「ええと……」


 これはまずいと思いはすれど、どう声をかけていいものやら、言うべきことを見つけられずに困ったままで文奈を見つめる。

 冗談のつもりで言ったことを本気で受け止められ、それで深く傷ついたのかもしれないということはわかる。上手くフォローしなければ大変なことになるということもわかっている……が、とっさに言葉が出てこない。湧いてくるのは焦る気持ちのみだ。


「あの、川代……さん……? 大丈夫、ですか?」


 ついには焦燥感に耐え切れなくなり、とりあえず考えなしに声をかけてみることにした。焦りのあまり思わず敬語になってしまったのは仕方のないことである。


「……ぷっ……あはははははっ……!」


 うろたえている柊二をよそに、文奈は肩を震わせて壊れたスピーカーのように大声で笑い出した。それはもう、笑いすぎて死ぬのではないかというレベルのウケようだった。


「あはははは……っ! 何なんその泣きそうな顔……っ! 捨てられた子猫か君は! かわいすぎやろ!」


 いきなり笑い飛ばされ、男としてはあまり嬉しくない『かわいい』という評価まで頂戴したにもかかわらず、柊二はそのひょうへんっぷりに戸惑い、とっさに反応できなかった。

 一体何がどうなっているのかと考え――ここで初めて、思わせぶりな仕草でからかわれたのだと悟った。

 文奈はピアノをべしべし叩きながら思いきり腹を抱えて笑っていた。本当に笑い死にしそうな勢いで、冗談抜きでいろんなものが壊れてしまったかと思うくらいのリアクションだった。


「わ、笑いすぎだろいくらなんでも!」

「ごめっ、でもっ、あはははははは……。ひ、ひょっとして君、女の子の相手すんの苦手やったりするん? ていうか、そうやろ? そうじゃなきゃおかしいって!」

「…………ぅ」


 恥ずかしさと怒りで文奈を怒鳴りつけたが、痛いところを突かれて二の句が継げずに硬直した。

 幼少の頃からピアノを相手にしている時間のほうが長かったせいで、ろくに友達と遊んだことがなく、彼女の言うとおり人と接するのは得意ではない。特に、同性ならまだしも、苦手意識のある母や妹と同じ女性が相手となるとからっきしだった。

 だからこそ、その事実を異性から指摘されると、男友達から言われるより破壊力三倍増しでブルーになる。


「……どうせ友達づきあいが下手なボッチだよ、俺は」

「あ、さっきのは気にせんといて。私も似たようなもんやから」


 笑いすぎて溢れた涙を拭き、文奈は同情の眼差しでぽんぽんと柊二の肩を叩いた。


「私もあんまり男の子と接するの、得意やないねん。生まれつき人見知りが激しい性格らしくて。ま、ちょうどええやん。お互い似た者同士っちゅうことで」

「得意じゃないと言うわりにはずいぶんと人としゃべるのに慣れていらっしゃるようですが、お嬢さん?」

「関西人はこんなもんやで? もちろん例外もいっぱいあるけど。私とか」


 言って文奈は、先ほどとはまた違った笑みを浮かべた。

 同じ笑い顔でありながら、受ける印象がまるで違って見えるという不思議な表情だった。見ている者の気持ちを温かくさせるような、優しい笑顔。

 それを前に怒る気はどこかに失せてしまい、柊二は苦笑しながらやれやれと内心で嘆息した。真面目に怒るのが馬鹿らしいと思ってしまったのだ。


「それにね。女の子と話すのも、ピアノの練習といっしょ。樋川くんのペースで、ゆっくり慣れていったらええねん。樋川くんもちゃんと私と話せてるし、できへんわけやない。なんやったら私が練習台になったるし、気にせんでも大丈夫やって」

「……そうかな」

「そうや」

「そう、か」


 根拠も何もないくせに妙にしっくりとくるその断言が、なぜか柊二をほっとさせた。



 ――気づけば。

 さっきまで柊二の心の中を埋め尽くしていた、弾けないことの焦りや苛立ちがウソのように消えていた。むしろ、そのうち弾けるようになるだろうという楽観が湧きつつある。

 それは母のレッスンでは一度たりとも感じなかった、不思議な感覚だった。

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