第1楽章 第3節

 自宅では、柊二しゅうじはピアノに近づかないようにしている。

 防音処理されたリビングにあるアップライトピアノには嫌な思い出しかないからだ。

 柊二の母は、息子をピアニストにしようと幼い頃から厳しいレッスンを課した。

 指も腕も痛いと泣いたら、我慢しなさいと叱られた。

 一生懸命弾いているのに、怠けるなと叱られた。

 友達と遊びたいと言ったら、そんな暇があったらレッスンしなさいと叱られた。

 もうやめたいと叫びわめいたら、母だけでなく父からも叱られた。

 毎日、ただひたすらにピアノを弾く。

 叱られながら、何時間も。

 弱音も許されず、怒鳴られながら白黒の舞台と対峙した。

 やめたくても許してもらえず、痛む手を動かし、折れそうな指で延々と鍵盤を押した。

 柊二にとって、ピアノを弾くことが何よりも苦痛だった。

 しかし、幼い彼にはそれから逃げる術がなかった。親の言うことを聞いてただ耐えることしかできることがなかった。

 当然、そんな精神状態で練習して上手くなるはずもなく、柊二の技量は小学四年になった頃にまったく進歩しなくなった。それどころか、今まで弾けていたフレーズさえ弾けなくなる始末だった。レッスンするほどに下手になっていく息子に母親はさらに厳しくなったが、追い込まれていくだけで演奏技術は戻らなかった。

 それから二年が過ぎ、音楽とは到底呼べない音の羅列しか出せなくなった柊二を見て、さすがにこれはもうダメだと悟ったのか。


「やめてもいいわ。もういい」


 憑きものが落ちたようにそう言って、異常なほどの執着を見せていた母親は、あっさりと見切りをつけた。

 柊二はそれを喜んだ。

 やっと開放された――心底そう思った。

 思い起こせば、日々叱られるばかりで、誉められたことはほとんどなかった。

 弾くことが痛くて苦しくて、始めた頃に音を奏でることが楽しいと感じた気持ちはまるで思い出せなくなっていた。

 気がつけば、ただひたすら辛い思いをしながら鍵盤を叩いてきただけだった。


 ……何でこんな苦しいことをやっていたんだろう。

 ……何でこんな痛いことを続けていたんだろう。


 母親の重圧から自由になって喜んだのもつか、残ったのはそんな気持ちだけだった。


 ――ピアノなんてこの世になければよかったのに――


 そう思わずにはいられなかった。

 思ううちに、ピアノを嫌うようになった。


「…………」


 今、リビングのピアノの前には、母と、歳の離れた妹がいる。

 妹は弾くことが楽しくて仕方がないというように、生き生きとした様子で母のレッスンを受けていた。

 まだまだつたない旋律が響き、ミスも数えきれないほどあるというのに、母はそれを喜んでいる。柊二が今まで一度たりとも見たことがない、嬉しそうな表情で。

 その光景を見ていると、自分のときとはまったく態度の違う母が別人格の人間に思えた。

 厳しくしすぎたせいで柊二が脱落したから、妹には優しく指導しようとしているのだろう、ということは理解できる。若い頃に音楽をこころざして大成たいせいできなかった母が、その夢を子にたくすのもわかる。教職に就いたことのない母が指導方法を試行錯誤するのも仕方がない。

 しかし、こうして楽しそうにしている妹を見ていると、自分が踏み台にされたような気がして妙に苛立ってくる。

 そんな不快な気分になりたくなくて、ピアノをやめて以来、母はもちろん妹ともほとんど口をきかなくなっていた。


「俺のときは怒ってばっかりだったクセに……」


 自分にしか聞こえない恨み言を小声で吐き捨て、レッスンを邪魔するようにわざと乱暴な足音を立てながら階段を上り、二階の自室のベッドに着替えもせず身を投げ出した。

 煮えたぎった苛立つ気持ちを頭の芯から追い払うように大きなため息をつき、ふと天井を見上げる。その先に貼ってあるいくつかのポスターの中の癒し系アイドルが無責任に笑っていた。


「くそ、イライラする……」


 普段は何ということもないその笑顔が、今日は妙に神経を逆なでした。

 見ているだけで苛立ちが加速していき、それが爆発する前に手探りで枕を引き寄せ、うつ伏せになって顔をうずめた。目を閉じて、苛立ちをどこにぶつけてやろうかと思案する。

 壁を殴るか、ベッドを蹴るか、それとも目覚まし時計でも投げてやろうか。お気楽に笑ってやがるポスターのアイドルに物を投げてやろうか。破れたって構いやしない。

 そんなことを考えていると、不意に放課後に会った女子生徒の顔が浮かんできた。

 濃い茶色の髪。茶色の瞳。白い顔。桜色の唇。似合わない関西弁。無神経な笑顔。

 そして――指の傷。


川代かわしろ……ふみ、とか言ったな……。何だったんだアイツ……」


 他人のオリジナル曲にいきなり歌詞をつけて歌ったり、素人にはわからないほどの手抜きを的確に指摘したり、他人の演奏に完成度を求めたり、ピアノが嫌いだと言うと傷ついた顔をしたり。

 思い出せば思い出すほど、よくわからなくなる人物だった。

 芸術科で音楽を専攻しているのなら諸々もろもろのことは納得できるのだが、どうもそういう様子はなかった。大体、芸術科は授業をサボって昼寝などしていられるほどカリキュラムは甘くない。授業のほとんどが実習で、単位を得るには何より授業に出なければならないのだ。

 かと言って、普通科に在籍しているような感じでもなかった。雰囲気や気配が普通科の十人並みな生徒とは明らかに違っている。


「変なヤツだったな……」


 旧音楽室を出ようと開け放ったドアの前に立ち、西日のくすんだオレンジ色を全身に受けながら、眩しそうに目を細めて笑ったその顔を思い出して、柊二はそう呟いた。

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