第4楽章 第1節
楽しい時間は矢のように過ぎ去り、目に留まらない速さで流れて行く。
夏の気配はもはや過去に遠く、辺り一面が秋色に染まり尽くした日曜日。
秋晴れと呼ぶに相応しい、抜けるような高い青空と心地よい風。どこからか銀杏の黄色い葉が舞い飛んで、ひらりひらりと中空を楽しげに踊っていた。
今、学校は文化祭の真っ最中。校舎内はもちろん、イベントを行っているグラウンドや体育館も来客や生徒で溢れ返っていた。
しかし、
ただし、それは演奏会が始まる三十分前までの話だ。
柊二は正直なところ、客など一人や二人……むしろ無人でもいいと思っていた。ライブは文奈とピアノを弾くための方便で、事の成否や客入りは二の次だった。
だがその思惑は外れ、中規模のブラスバンドなら無理すれば入るかもしれないという広さの旧音楽室に、空席は一切なかった。それどころか立ち見客すらいるほどだった。
連弾の曲目が珍しかったからか、それともオリジナル曲を歌うからか。
それほどに期待できるものなど何もないのに、と柊二は内心で思っていた。
一般の客が九割以上で、あとは普通科の生徒と教師が数人。芸術科の生徒は見当たらない。演奏者が普通科の人間だから聴く価値はないと思われているのだろう。
一般客の多さは、芸術科(特に音楽専攻)が全国的に有名な高校で個人ライブをするくらいだから、さぞかしレベルの高い演奏が聴けるだろうと思って来ている人間が少なくないということの表れだった。ポスターに演奏者が普通科の素人であるとわざと書かなかったことも聴衆を増やした一因かもしれない。それが吉と出るか凶と出るか。
「満員御礼、ってか。冗談じゃねぇよ……」
元は大型の楽器を保管していた小部屋から予想外に集まった聴衆を覗き見た柊二は、今になって緊張と恐ろしさで震えが止まらなくなっていた。できうる限りの練習はやったものの、上手く弾けない箇所がなくなったわけではない。本番で取り返しのつかない大失敗をやらかしたらと考えるだけで、今すぐにでもここから逃げ出したくなる。
「いざとなると
「大丈夫。あんだけ練習したんやし」
文奈は緊張するパートナーを落ち着かせようと柊二の手を取って、にっこりと微笑んだ。平然とした様子、温かな手、柔らかい笑顔。ただそれだけで柊二の緊張が少し緩む。
「お前、やっぱり強いな……。この聴衆を前にしてどうしてそんなに落ち着いてられるんだよ」
「私らはプロやないんやから。失敗してもええねんて。失敗しても。うん、素人なんやから」
「
どことなく文奈の様子がおかしい。どこでもない虚空をじっと見つめて、ひたすら「大丈夫、大丈夫……」と繰り返し呟いていた。柊二の手を握った手がどんどん冷えていき、異様に力が入り、がくがくと震え始める。
「お前、ひょっとして……」
「えっ、何? どうしたん
「いや全然そうは見えないんだが」
思わず柊二はツッコミを入れる。
何の事はない。
文奈も緊張に押し潰されそうになっていただけに過ぎなかったのだ。
自分が作ったポスターが想像以上の集客効果を発揮し、それに伴う期待値の大きさに今更ながら恐ろしくなってしまったようだ。
落ち着いて見えたのは初めだけで、それも柊二の気のせいだった。
そんな彼女を見ていると、緊張だの失敗だのと考えているのがバカらしくなってしまい、柊二はつい先ほどまで自身が震えて怖がっていたことを棚に上げて呆れ返ってしまった。
「よし、川代。深呼吸しようぜ。ほら、一緒に」
「ふぇ? ああ、うん」
すー、はー、すー、はー、すー、はー。
子供のお遊戯よろしく二人揃ってリズム良く深呼吸した。これから連弾するのにふさわしく、吸って吐くタイミングが完全に同調していた。
緊張はどうあれ、呼吸はピッタリ合っている。
状態は万全だった。
「よし、ちょっと落ち着いたか」
「……うん。じゃ、行きますか」
うなずいて、文奈は大きく吸った息をゆっくり時間をかけて吐き出し、何かを期待するように軽く手を上げた。
柊二は怪訝そうにそれを見つめる。
「……何だよ?」
「ハイタッチ」
「それは終わってからするもんだろ。校歌とハイタッチは終わってからだ」
「校歌て。高校野球やないねんから」
「とにかく、それは無事に演奏をやりきったあとにしようぜ」
ぽんぽん、と苦笑する文奈の肩を叩き、柊二は笑った。
いつの間にか、どうしても拭いきれなかった恐怖感がほとんどなくなっていて、心地よい緊張感だけが残っていた。
彼女と――文奈と一緒ならできないことはない。
根拠もなく、そう確信できた。
「行こうぜ」
「うん。いいハイタッチができるように、ね」
そして二人は、初めての小さな舞台に上がった。
『ふたつのはんぶん』。
作曲者は不明。酷く単調なピアノソロで、曲もわずか三分に満たない短いものである。ただ楽譜をなぞるだけなら、初心者でも一ヶ月程度の練習で演奏することができるだろう。
そんなシンプルなこの曲が、文奈は一番好きだった。
数年前、親戚に連れられて行ったピアノコンサートで偶然耳にしたとき、とてもいい曲だなと思った。
聞いたことのない題名で、誰の曲かもわからないそのピアノソロを、自分でも弾いてみたいと思い、曲に関する情報を必死になって集めた。
その甲斐あって、作曲者による演奏とされる原曲が収められた音源と楽譜を手に入れることができた。
それからはコンサートで演奏した人とは違う、より感動させられた音源の演奏に近づけるように、数えきれないほど繰り返し繰り返し練習した。
まだ、足りない。
まだ、心に響いてこない。
まだ、その領域に私の手は届いていない。
まだ、やらなければいけないことがたくさんある。
自分の演奏で自身の心を震わせるには足りない。
ほとんど原曲と変わらないと言われるほどになっても、全然満足できなかった。
文奈はまだ、自分で完全に弾けていると思っていない。原曲を聴いたときに感じた、言い表しようのない心の震えが自分の演奏にはなかった。
もっと、もっと練習が必要だった。
寝ても覚めてもこの曲のことを考え、時間が許す限りモノクロの舞台に十指を踊らせ続けた。
しかし――唐突にそれは訪れた。
突然の夕立。軋む自転車。濡れたアスファルト。廻る景色。遠のく意識。曇天の灰色。動かなくなる体。耳朶を叩く冷たい雨音。そして――暗転。
一瞬――ほんの一瞬で、全てが閉じた。
長いような短いような、ただ闇の中を
動かそうとした左手に感覚がなく、元には戻らないということを無意識に理解した。
涙が止まらなかった。
悔しくて、悲しくて、情けなくて。
バカみたいに涙が溢れた。
それを拭いたくても、手は動かなかった。ケガをしていない右手も、絶望のせいか動いてくれなかった。
止まらない涙が溶けた鉄のように熱く、頬を焦がしながら流れ落ちていった。
幾筋も、幾筋も。
自身では、もう完成させることができない。
もう弾けない。
震えた心には届かない。
動かない左手を心底憎み、呪った。
動いてくれない指なんか要らないと思った。
いっそのこと切り落としてやろうかとさえ、思った。
しかし、そんなことをしても何もならない。
失った左手の機能は、もう戻らない。
自分が求める旋律を自身で奏でることは、できない。
できない。
できない――
彼女にできることと言えば、ただ一つ。
諦めることだけだった。
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