第6話 憑依〈佐久間レイヤ〉

「‥‥‥沙衣‥‥‥邪魔‥‥なの‥‥よ‥‥あんた‥‥‥」


「何言ってんだっ、凛花! 河原崎さん、すみません! 妻は急にどうかしてしまって‥‥‥」


 凛花の不躾な言葉に、沙衣くんはぎょっとして一気に顔色を失った。


「あっ! 凛花ッ!!」


 凛花が不意に気を失って俺に倒れ込んで来た。咄嗟に支えようとした俺の足にぶつかった椅子が、ガタガタ大きな音を立てる。


 俺はよろめきながらもしっかりと凛花を抱えた。


 ポカリと静寂の間が数秒出来た。



「‥‥あ‥‥の‥‥‥」


 戸惑った右手を所在無げに差し出している沙衣くんは、俺たちのことをとんだ迷惑夫婦だと思っているだろう。だが、今の俺は凛花の体を支えていっぱいいっぱいだ。


「すみません、ソファーのクッションをどかして下さいますか?」


「あっ、ハイ」



 凛花をソファーに寝かせて寝息を確かめた。


「凛花‥‥‥?」


 スースー寝ているようだ。


 結婚して環境が変わり、毎日の仕事と家事。小さなこととはいえ、家の中で気になるトラブルまで抱えて、ストレスが溜まっていたんだろう。いつも優しい笑顔でいてくれるから、こんな風になるまで気づかなかった。


 俺の凛花への配慮が足りなかったせいだ。


 それに、おとなし目の凛花は、沙衣くんタイプの男とはあまり関わったことが無くて、拒否反応もあっただろうし、緊張が加わっていたのかも知れない。



「無理に来させた上にこのような失礼をして、本当にすみませんでした」


 とにかく、沙衣くんには謝るしかない。



「‥‥‥大丈夫かな? 奥さん。‥‥貧血?」


「はい、疲れが溜まっていたんだと思います。今日はありがとうございました」


「‥‥‥いえ、俺、全くお役に立たなかったですね。でも‥‥‥この辺に動物なんて聞いたことないけど。この辺あまり自然もないし、ハクビシンなんて本当にいるのかな? 野良猫くらいしかいないと思うけど‥‥‥」



 俺と話ながらも沙衣くんの視線は凛花に注がれている。


 沙衣くん、凛花をヤバい人認定したみたい。


 一見ヤバそうな人にヤバイ人認定されるってヤバイ。でも、こんなのはいつもの凛花とはかけ離れてる。なのにこれが広まって近所から危ない隣人だと認識されてしまったらツラい。



「お大事に。じゃ、俺はこれで‥‥」


 早くここを立ち去りたい素振りの沙衣くんが、ペコリと会釈した時、仰向けにソファで寝ている凛花の手が、沙衣くんの手首を掴んだ。


「えっ!?」


 沙衣くんは、凛花と俺を交互に見てあたふたした。軽く手を振って振り払おうとしてるけど、凛花の手は離れない。


「河原崎さん、すみませんっ!‥‥‥凛花? 起きてるのか? 河原崎さんの手を放して」


 凛花の目は虚ろな半開き。


 俺が沙衣くんを掴んでいる凛花の手を引き離した途端、嘘だろ? 今度は俺の首を締めた。見開いた血走った目で。


 この目は‥‥


 フラッシュバック。


 ドアの隙間から覗いていたあの目を思い出す。



「ぐえッ‥‥‥やっ、やめ‥‥ぐわッ‥‥‥」


 凛花の両手首を掴んで引き離そうとしたけど、離れない。


 黒目が上に向いた凛花の目から、耳に向かって涙がこぼれ落ちた。



「佐久間さんッ!!」


 沙衣くんは凛花の頭側から、凛花の腕を掴んで広げようとした。


「グググ‥‥スゲー力持ち! お宅の奥さん‥‥くっ!」


 沙衣くんのお陰で少し緩んだ隙に、凛花の指を引き剥がして逃れた。確かに凄い力だ。男二人がかりでやっとだ。高校時代に弓道を少しかじっただけでこんな力が?


 苦しい。ゲホゲホとむせて床にうずくまってしまった。今、何が起こったのか信じられない‥‥‥



「大丈夫ですかッ、佐久間さん!」


 ソファの端で凛花の両手首を握ったまま、青ざめた沙衣くんが叫んだ。


「奥さん、正気じゃないぜ!」


 凛花は今度は沙衣くんの首を狙っている。


 力が均衡し、二人の腕がプルプル震えている。いや、少しづつ沙衣くんの首に迫っている。いくら沙衣くんがひょろいからって、凛花が男の力に勝つなんて!



「悪いけど、一旦ロープだ! このままじゃ!! そこのコードで縛れっ!」


「ゴホッ、ゲホゲホ‥‥し、縛るのか? 凛花を‥‥‥?」


「仕方ないだろッ!! 今、そんなこと言ってる場合かよ! あんた奥さん人殺しにしたいわけッ? ぐっ‥‥早く‥‥俺もう、もたない‥‥‥」



 俺は近くにあった電気ポットのコードを引き抜き、凛花の手首を縛ろうとしたら、思い切り腹を蹴られた。


「グェッ‥‥‥オェェ‥‥」


 俺は息が止まり、しりもちをついたまま、動けない。一体何が起きてる?


 凛花はどうしてしまったんだ?



 沙衣くんの長めの金髪を掴んで頭を引き寄せ、首を狙っている。



「イテテテ、放せっ、俺禿げる‥‥‥チッ、おたくら普段もそんな感じ? 奥さんつえーな!‥‥っくっそ‥‥どうすりゃ‥‥そうだッ! しおっ、キッチンに塩あんだろッ! 奥さんに思いっきりかけてみろ! 早く!」


 凛花の手が沙衣くんの首にかかろうとしていた。



「ゴホッゲホッゲホッ‥‥し、しお? なんで塩?」


「いいから、早くしやがれッ!!」


 沙衣くんがヒステリックに叫んだ。


 俺はよろめきながら、キッチンへ向かう。



 しお、しお、塩はどこだ? 白いやつ、白い‥‥ 


 俺はパニックになっていた。



 そこには似たような容器に入れられた、白い物体2つ。


「えっと、砂糖と塩がどっちかわかんないよ‥‥‥」


「バカッ、なめてみればわかんだろ! それに、わかんなきゃ両方まけよ!」


 カンで片方取って舐めてみた。


「塩‥‥これだ!」


 振り向いた時には、もう沙衣くんの首に、凛花の指が巻き付いていた。


 必死で抗う沙衣くんの顔は真っ赤だ。


「ヤメロッ!! 凛花っ!!!」


 俺は凛花に向かって塩を振り撒いてから、凛花の腿に乗っかって、蹴られないように脚を押さえた。


 さっきより力が急激に弱まって来たようだ。だけど塩でダメージ?


 沙衣くんはなんとか凛花の手は引き剥がし、左右に広げて掴んでいる。


 凛花の血走った目は、恐ろしいほど大きく見開いている。同時に涙が溢れていた。



「グワッ‥‥‥‥‥邪魔な‥‥子‥‥‥‥‥‥消えて‥‥しま‥‥え‥」


「ゲホッッ‥‥うるせー、ゲホゲホッ、クソババァ‥‥ハァハァハァ‥‥おとなしく死んでやがれ」


 凛花の指から力が抜けているのが見て取れる。



 沙衣くんは、ソファの脇から逆さまに向かい合った顔を凛花にギリまで寄せて、ゼーゼーしながら憎々しげに低い声で悪態をついた。


 そして凛花の手首から手を放した。


 凛花の目が再び虚ろな半開きになっていた。やがて目を閉じ、何事も無かったようにスースー寝息を立て始めた。



「悪い。奥さんの手首、アザが出来ちゃうかもな」


 そう言う沙衣くんの首には凛花の指の跡がついている。きっと俺の首にも。


「‥‥‥一体何が起こったんだ? 凛花はどうしてしまったんだ?」


 俺はソファに横たわる凛花の寝顔を見て、不覚にも涙が出た。愛しい妻の頬を撫でる。そのままぺたりと床に座り込んでしまった。



「佐久間さん。大丈夫ですか? 取り敢えず、この家に聖なるものってないのかよ?」


「聖なるもの?」


「初詣行ったのか? そん時買ったもんとか、お札、御守り類は無いのかよ?」


「あ‥‥‥家内安全の破魔矢なら‥‥‥」


「どこにある?」


「妻の部屋に‥‥‥」


「何も聞かずに今すぐにここに持ってこい! 奥さんが大事ならな」




 俺が凛花の部屋から持って来た破魔矢を、沙衣くんは凛花の寝ているソファの下に置いた。


 そのソファの四隅の床には、いつの間にか盛り塩が出来ていた。



「気休めかもな。まあ、無いよりいいだろ」


「沙‥‥河原崎さん、さっきから何を? 俺に言っていないことが何かあるのですよね?」


 さっき、沙衣くんが凛花に投げた言葉は何だったんだ? 明らかに凛花に言った言葉では無い。



 《ウグッ‥‥うるせー、ゲホゲホッ、クソババァ‥‥ハァハァハァ‥‥おとなしく死んでやがれ》



「‥‥‥急にさ、茉莉児まりこさんが亡くなっておかしいとは思ってた。そんで、ここでこの現象って‥‥‥封印‥‥解かれたとしか‥‥‥いや、茉莉児さんが開けるわけねーよ‥‥」


 俺の問いかけを無視した返答をして、沙衣くんが親指の爪を噛みながら独り言を呟いた。


「‥‥‥何のこと言ってるんだ? 封印って?」



 沙衣くんは一人思考して、俺の声は聞いていないようだ。



「‥‥もしかして、あのままこの家の床下に置いてかれてたとか? なあ‥‥佐久間さん、見たことない? あれくらいの大きさの木の箱」


 沙衣くんがやっと俺を見て、テーブルの上のティッシュ箱を指差した。



 どうして、沙衣くんがあの桐箱のことを知っている?



「‥‥‥ああ、あったよ。床下に。なんで河原崎さんがそれをご存知なんですか?」


「そんなこと今はどうでもいいし。開けたのそれ? それ、どこにあんの?」


 イライラとせっつくような、俺を責めるような口調だ。



 なんだか俺、素行の悪い同級生に脅されてる感。


 大変不快に感じる。


 優等生グループだった俺はあまりこの手の人とは交わってこなかったし、今の俺の周りにはいない階層の人だ。隣の人は選べないって世間では言うけれど、こういうことだよな。



「だから、それが床下から出て来て、不動産屋に連絡して茉莉児まりこさんにも確認取って貰ったけど、持ち主不明で処分したんだ。箱の写真あるよ。見ますか?」


 俺は感情を抑えて答えた。

 


「げっ‥‥‥処分って‥‥マジ? 棄てちゃったのかよ‥‥。俺のナイフまで‥‥‥ちっ、茉莉児さんもシカトこいて逃げてんじゃねーよ‥‥‥」


 沙衣くんは俺に向かって言ってる風でも無く、どっかを向いて一人ぶつぶつ呟いた。



 先ほどから、とめどなくさわさわする不安とねっとりした重苦しい畏怖が俺に流れ込んで来ている。


 もしかして、沙衣くんのせいで凛花がおかしくなってしまったのでは? と、言いがかりのような感情もわいて来ている。



 だって、この人はあの箱の存在理由を知っているのは確実だ。


 一体何があるんだ!? 沙衣くんは、何を知っている?



「‥‥‥河原崎さん。俺に塩やら破魔矢なんか持ち出させて。まさか、これって人外の仕業とか言う気ですか?」



 この展開だけど、俺はそんなこと信じたくない。この事態が物語っている事実を。


 こんな非科学的な現実離れしたことを。



 ここが幽霊屋敷だったなんて。


 凛花に悪霊が取り憑いたなんて。



 沙衣くんは、顎を上げて斜め下に俺を見た。ふて腐れとげんなりを添えて。



「‥‥‥じゃなかったら、何?」





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