第110話


 ルカヱルが探し物のために姿を消してから、丸一日が経過した次の朝。

 セタは桟橋の上に座り、スケッチブックに絵を描きながら、静かに過ごしていた。そんな彼の背後から、アイランが恐る恐るの足取りで近寄ってきた。

「せ、セタさん。おはようございます。魔女様、まだ戻ってこないんでしょうか?」

「ええ……。どうもそうみたいです」

 アイランに反して、セタの声色は不安感や心配のようなものに染まっていなかった。

「セタさん? ……心配じゃないんですか?」

「心配してますが信頼もしてます。ルカヱル様は――多分、自分の知りたいものを知るまで、ここに戻って来れないだけです」

「知りたいもの? 魔女様、やっぱりこの島で竜を探してるんですか?」

 セタは限りなく、ルカヱルが探しているものを正確に把握できていた。“竜”を探していると言うのも正しいが、実際にはもっと色々な物をルカヱルは探している。

「しいて言うなら答えですかね。ルカヱル様が持っている長年の疑問の」

「はぇ……。そ、そんな大層なものが、この島に?」

「少なくとも手がかりは」

「そうなんですか……」

 アイランは、呟くように応じた。セタはスケッチブックに線を連ねていく。沈黙の気まずさを紛らわすために、アイランはセタの背後まで歩み寄り、絵を覗き込む。

「わあ、セタさん? それ、何の絵なんですか?」

 アイランは首を傾げて尋ねる。先を針のように細く削った木炭を使い、繊細な線で描かれたその絵には明確な形と呼べる輪郭が無く、風に揺らぐ半透明のカーテンが重なったような情景だった。

「この前の旅で見た物です」

「えっ。それ、現実の風景なんですか」

「ええ。ルカヱル様にお見せするよう約束してたんです。暇なときに少しずつ描いてるんですが、これまで描いてきた絵の中で一番難しいです――オーロラというもので」

「おーろら……? どこに行ったらそんなものが? 私も見てみたい」

 セタは彼女の質問に答えようと、ふと振り返った。

 そのとき強い風が吹き、アイランが目を瞑った――背中で風を受けたセタは目を瞑ることはなく、アイランの背後に“それ”を見た。


 それは人だった。音もなく桟橋の上に降り立ち、板材が軋むこともなく、裸足のつま先だけが軽く地に触れて、踵は軽やかに浮いていた。地面に擦りそうなほどに長い髪は翡翠色で、長い裾と袖の衣装と共に、風に揺れている。

 時間が引き延ばされたようにゆっくり流れたような気がした。その人物の踵が、次第に桟橋の板に近付き、顔が少しずつ振り返り――セタと目が合った瞬間、もう一陣の風と共に、ふっと消えたのだった。


「……うぅ、目にたくさん砂が入った……凄い風でしたね、今」

 眼をこすりながら、アイランが呻く。

 セタははっと顔を上げて、

「ええ」

とだけ答えて、頷いた。

(今の……。何かの見間違いか?)

 セタはそう思った。

 しかし何よりも彼の脳裏に鮮明に刻まれた記憶が、見間違いではないことを訴えていた。時間にして僅か0.1秒ほどの刹那だったかもしれないが、それでも彼が見た物は、記憶としてはっきりと残っていたのである。

「セタさん? えっ……何か後ろにいますか!?」

 アイランが驚いて振り返る。何もない空間を見つめる猫のように固まっていたセタは首を振る。

「いや、何もないです!」

 セタは首を振ったが、一呼吸おくと彼女に尋ねた。「……アイランさん、この島に、髪が緑色の方っていますか?」

「か、髪が緑?」アイランは語尾を上げる。「そんな人、見たことないですけど……」

「そうですか」

 もちろん、そんな印象的な人物が、もしこの島にいるのなら、アイランが知らないはずはない。

「そうだセタさん。今日は私、これから海に潜ってくるつもりで……。なのでもし魔女様が戻ってきたら、よろしく伝えてください。お茶とか、良かったらお好きに飲んでくださいね」

「あ、そうですか。わざわざすみません」

「いえ! ではでは、行ってきます」

 アイランはそう言うと踵を返し、桟橋にはセタだけが残った。

 セタは、オーロラを描いていたスケッチブックのページをめくり、3枚ほど次のページに、自分の記憶に残る人物を描き始めた。

(背丈はアイランと同じくらい――髪はミィココ様みたいに長かった。服はサイズが大きくて……)

 記憶を頼りに迷いなく筆が動く。特別に鋭く研いだ木炭の先端が描き出す線は、正確にその人物を紙の上に浮かび上がらせていった。

 人物を描くという行為が、セタには新鮮に感じた。思い返せば、ここ長らくセタは竜の絵ばかりを描いていたのだ。竜の図鑑プロジェクトに携わっているのだから、それは当たり前だ。

 プロジェクトが始まる前、地図編纂課に所属していた時は地図を描き、それより更に前――幽霊画家だった時は、ジパングのエダの城壁に風景画を描いていた。

 だから肖像画を描くのは珍しいことだと、セタは改めて思った。実際の所、人の絵を最後に描いたのは、ルカヱルに会った時だった。

 何か描いてみて、と彼女に言われたのだ。

 だから彼女を描いた。あの絵は今――

(あの絵……あれ? そういえば、どこに行ったっけ? たしか、ルカヱル様に渡したような気がするけど)

 セタは、珍しく覚えていないことがあることを思い出した。

 見たことは覚えられるし、聞いたこともある程度正確に覚えている彼だが、それでも記憶にないということは、単純に絵の行方を、セタは観測し損ねたということだった。

(……うん。ルカヱル様が戻ってきたら、聞いてみよう。多分、あの人が袖の下に持ってるんだろう)

 凡そ記憶の中の人物を描き上げたころ、また一陣の風が吹いて、スケッチブックが捲れ上がった。

「うわっ……」

 紙の動きに弾かれて、セタの手から木炭が落ちて、桟橋の上を転がる。セタは咄嗟にそれに手を伸ばして。

 その時、また見えたのである。

 あの翡翠の髪の人物だった――桟橋の続く向こうの土手の上で、彼のことを見ていた。

「あっ」

 セタが声を上げると、彼女は振り返り、また消えた。

「えっ……。え?」

 さすがのセタも、見間違いでは済ませないと思った。彼はスケッチブックを閉じ、筆を拾うと、彼女が消えた方へと早歩きで向かう。

 そこにたどり着くと、また遠くを彼女が歩いていて――そしてまた、彼女は消えた。

(な、なんだあれ……。まさか、幽霊って奴……?)

 セタは顔を青くした。そして、ぶつ切りの映像のように刻まれた不気味な記憶を修正したくて、幽霊の後を追いかける。

 彼女は、セタが近寄ると姿を現しては消して、また現れては消えて――そうして、やがてセタは先ほどまでと別の砂浜に導かれるように至った。

 そこで、浜の上で横たわる人物を見つけたのである。

「……ルカヱル様!?」

 声を上げて血相を変え、セタは彼女に駆け寄る。

 髪も服も水に濡れていて、目を眠るように瞑っていた。右手には色鮮やかな小さな石を握っている。彼女の顔を見ると、ダメージを負ったときに浮かぶ亀裂模様があった。

「これは……。一体何が……?」

「……ん、う……」小さく、ルカヱルが呻く。

「ルカヱル様!」

 セタが呼びかけると、ようやくルカヱルが瞼を開けて、セタを見た。

 ぼうっとした様子で、数回瞬きをすると、ルカヱルは自分で体を起こした。

「セタ? なんでここに?」

「いや……。俺が聞きたいですが……」

「んん……」

 ルカヱルは体を起こし、周囲を見渡す。「――あれ?」

「ど、どうしたんです? 何かありましたか……?」

「私、なんで地上ここにいるの? さっきまで深海にいたのに」

 そこまで言うと、ハッとしてルカヱルは辺りを見渡した。

「ノアルウは!?」

「え、ノアルウ?」

 セタは目を丸くする。いずれにせよ、彼女にはその話をするつもりだったが、ルカヱルの方から突然そのことを切り出したからだ。

 当のルカヱルも混乱している様子だったが、ふと自身の手に握られていた、小さな翠色の石を見て、はっと息を呑んだ。

「いや、そっか。ノアルウはいなかった……」思い出したように言うと、ルカヱルは瞳から雫を流す。

 魔女が涙を流す理由はほとんど人間と同じようなものだが、魔女が涙するほどの激情は、強いマナの負担を伴う――ルカヱルの頬の亀裂が、また少し広がった。

「ルカヱル様」

 セタは、努めて落ち着いた口調で声を掛ける。

「何があったのか、話してくれませんか。その……お茶でもして」

 

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