第109話

 *


 深海にて。

 ルカヱルはかれこれ一日中、暗く冷たい深海の中を泳いでいた。ジパングの沖合において、深くまで続く海溝を見つけたのである。

(ここにインクレスがいたのかな)

 彼女にとっての「答え合わせ」の鍵が、海溝の奥の奥、すなわち星の深奥にあると、彼女は予想していた。

(だったら前にこの島に来た時、どうして波紋が収まってたんだろう)

 光も全く届かない暗闇の奥へ、ルカヱルは目を凝らす。

 水の中では、マナによる視界の揺らぎは少なくなる。逆にもしマナが視界に映ることがあれば、それは、常軌を逸してマナの強い存在がそこにあるということを示唆する。

(――ノアルウ、ここにいるの?)

 彼女の直感が最初の友の名を思い浮かべた。

 インクレスのことを知れば知るほどに、どうしても、もう存在しない魔女ノアルウのことが思い浮かんでいた。

 最初の違和感は、この島に来た時からあった。

 風の噂で自分ルカヱルと箒のことが伝わったのだろうと、最初は思っていた。だが、次第にそうではないと思い始めたのだ。旅の途中で知った様々な出来事が、もしノアルウが生きていれば成立するだろうと、思い始めたのである。

 なにより、インクレスを星の深奥で見つけた時――アトランティスに生きたノアルウは、確かに竜の逆鱗に触れたのかもしれないと、そう思ったのだ。ルカヱルがアトランティスを離れた理由は、地下資源開発が始まったことだった。それをきっかけに、鉱物の莫大なマナが地表に漏れ出したのだ。

 マナに対する感度が高いルカヱルは、視界の歪みに耐えかねて、仕方なくアトランティスを離れて東へと向かった。

 ノアルウは暇潰しのため、地下開発を進めていった。

 ゆえに、星の深きに眠るインクレスに物理的に触れた――ルカヱルが“ガイオス”と呼んだ竜の所業は、地下から姿を現したインクレスによる共鳴が起こした災いだろう。アトランティス大陸の中心で巨大な共鳴現象が起こり、大地を構成する鉱物全てがゆり動き、瞬く間に文明が崩壊した。

 ノアルウ諸共、すべてが海に沈んで、共鳴によって木端微塵になったのだと思っていた――。

 だがルカヱルは、パシファトラスの深海でインクレスと相対し、仲間の助けを借りたとはいえ、生還してみせた。ノアルウもきっと生き延びているかもしれない。そう思ったのは、その経験がきっかけだった。

 その時と同じように、ルカヱルは魔法で空気を纏い、浮力を相殺して、深海へと落下していく。

「……えっ?」

 ルカヱルは、すぐ前に広がる空間を見て、つい声を漏らした――この暗く深い海溝の奥に、全く水が無い空間があったのである。

 海底洞窟のように、湾曲した地形が空気だまりを作っているのではなく、水に囲まれた空間の中で、のだ。その空気だまりの底には、魚の死骸が積み重なっていた。

(なに、この空間は……)

 ルカヱルは水の中から、その空気の中へと飛び込む。

 水のない、死骸にまみれた海底へと足を付け、上を見上げると水の天井が出来ていた。すると、一匹の深海魚がその空気の中へ落ちてきて地面に打ち付けられた――この死骸の地面は、こうして積み重なったものらしい。

 通常の人間であれば耐えられないほどの腐臭と死臭に満ちた空気だまりだった。魔女であるルカヱルにとって、それは臭いでしかなかったが、それでも空間の異様さに気圧され、しばらく呆然と立ち尽く――視線を先に向けると、さらに深きに続く裂け目が見えた。

(この空気だまり、あの裂け目から続いている……?)

 慎重な足取りで裂け目へと近づく。真っ暗な空間の奥から、マナの波動が止め処なく溢れていた。

 ルカヱルは息を呑み、意を決すると、裂け目の奥へと飛び込んだ。

 数秒間も落下は続き――何百メートルも自由落下した果てに、ルカヱルは深奥へと至る。

 以前、インクレスのいる深奥に飛び込んだときと同じように、その空間は由来の分からない光に満ちていた。その上、周囲一帯が限りなく真空になっていた。

 水の中に空気だまりがあり、さらにその空気の奥には、光に満ちた真空の空間があったのだ――そしてそこに、一本の箒が刺さっていたのである。

 箒の柄は翡翠のような美しい結晶が纏っていて、それが鼓動するように光を放っている。

「ノアルウ……!」

 ルカヱルは箒の元へと駆け寄る。穂先を上にして突き刺さった箒は、まるで苗木のように見えた。

「これ……樹の魔法と同じ封印?」

 ミラジヴィーの背中に刺さっていた、白い巨木を思い出す。それと同じマナの仕掛けが、眼前の箒には掛けられていた。

 メフィーが樹の魔法を応用して行使する封印は、植物が大地からマナを吸い上げながら成長して空気中に発散する生態を利用したものである。そして通常の樹木と比べ、メフィーの樹がマナを吸う力は遥かに強い。

 だから竜がその樹に貫かれれば力を奪われ、やがて仮死状態となる。

 しかし仮死状態が続いた竜からはマナも吸い取れず、やがて樹は白く枯れて、封印も次第に弱まるのである。

 ルカヱルは箒に手を伸ばしたが、その指が箒に触れる前にひっこめた。もしも封印と同じ仕組みだとすれば、下手に触れるのは得策ではない。その箒が何を封印しているのか考えれば、なおさら。

(ノアルウもここに来たんだ。メフィーの魔法を真似て、箒で樹の魔法を使った封印を仕掛けた。これが波紋が収まった理由……?)

 ルカヱルは最初そう考えたが、自分で自分の考えに首を振った。

(いや、ノアルウが来てたとしたら、それはきっと100年以上前のはず……。封印の効力が発揮されるタイミングとしては、遅すぎる。むしろ、普通は時間が経つほど効力が弱まるのに)

 ルカヱルの予想は、次のようなものだった。

 前提としてノアルウはまだ生きており、箒の魔女として、かつての東洋群島へと訪れた。

 その目的はインクレスへの対処――その竜が再び“ガイオス”として、世界に猛威を振るうのを阻止することだと。

(阻止が目的だったとしても、どうしてノアルウの封印は、こんなに発動まで時間がかかったんだろう?)

 ルカヱルは周囲を見渡し、あることを思いついた。

(深奥にいるのに、あの共鳴音が聞こえない……そうか、ここは真空だから共鳴が広がらないんだ。深海の奥に真空空間を作るのに、何年もかかったんだ)

 本来であれば超高圧空間になるはずの深海に、巨大な真空空間を生み出す。この荒唐無稽な環境を実現して初めて、インクレスの共鳴を封じたことになるのだ。

 空気の魔法を知るルカヱルは、それがどれだけ難しく時間のかかる所業か、想像できた。樹の魔法を応用したマナの封印と、吸い上げたマナで空気の魔法を行使し、真空を生み出したのだ。この組み合わせが効力を発揮するまでに、長い時間がかかったのだった。


 そう気付くと同時に、ルカヱルは酷く顔をゆがめ、膝をついて崩れ落ちた。

 翡翠に似た色の薄い鉱物が鱗のように箒の柄に纏わりついていて、いくつかの破片が地面に落ちていた。

 それを手に取ると、鉱石の光が、ルカヱルの頬を伝う涙に反射した。

「ああ、あああ……。ノアルウ、そういうことなの? 貴方が、誰にも真名を名乗れなかったのは」

 悟ったルカヱルの中で激情が渦巻く。

 魔女の厄介な生態が、莫大なマナをあふれさせ、内なる奔流の負荷が彼女の追い詰めて、頬に亀裂が走る――そしてついには気を失い、その場に臥してしまった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る