変化
アルケンノヴァの本邸を訪れ、リディアがディオスと戦って数日後の朝。
いつもの夜明けの鍛錬を終えて寮の部屋に戻って体を洗う準備をしていたら、しばらく外に出てきたアルカがいきなり私の胸に飛び込んだ。
「お姉様!」
「きゃっ!? きゅ、急に何してるのアルカ!? 私、今汗をかいたから……」
「うーん、お姉様のなら汗もいい……いや、そうじゃなくて! 大変なことになりました!」
今アルカが変なことを言ったみたいだけど!?
すごく、ものすごく気になったけど、とりあえず大変だって言ったからそっちから話してみようか。
「どうしたの?」
「その……リディアお姉さんがすごくいじめられています!」
「は?」
まさかディオスがリディアに? いや、いくらディオスでもアカデミーで堂々とそんなことをするほどバカではないはずなのに。
いくらアルケンノヴァの大勢をディオスが掌握しているとしても、リディアもひとまずアルケンノヴァ公爵家の令嬢だ。一人勝手に権力争いをしているディオスでも争いを表面化させるのは憚るはずだけど。
リディアにいじめについて警告した私だけど、私が思ったのは隠密ないじめだ。朝からアルカが大騒ぎするほど堂々と行動するとは思わなかった。
……いや、考えてみればディオスがこれまでリディアを世間晴れていじめていなかったのは、あくまでも父上のアルケンノヴァ公爵の耳に入ることを嫌っていたからだ。すでにリディアの手紙がアルケンノヴァ公爵に伝わったことをリディアが言った以上、隠すよりもリディアの意志をくじくことを優先したのかもしれない。
……実に愚かな行動だけどね。
――紫光技特性模写『清潔』
消毒と洗浄に特化した魔力で体を素早く整え、制服に着替えてすぐ部屋を出た。アルカが私の傍に立ち、ロベルとトリアがいつの間にか後に続いた。
「リディアさんは今どこにいるの?」
「食堂ですよ! 急にリディアお姉さんの器に穴が開いてしまったり、変なところに飛ばされたりして……」
「……夜明けから朝食を食べに行ったの?」
「うぐっ!?」
「はあ……」
ため息が出た。もちろんそれ自体は間違いではない。実際、早い時間に朝から食べて活動を始める生徒も多いから。
ただ……アルカこいつ、意外に食い意地があるもの。明け方にこっそりご飯を食べ、鍛錬が終わった私についてきてもう一度食べてバレたことが一度や二度ではない。
説教をしたいけれど、今はまずリディアが先だ。
しかし食堂に到着した私を歓迎したのはドカンという轟音と、全く予想できなかった光景だった。
轟音に驚いて駆けつけた私の目に見えたのは……足が空中に浮いたままもがく騎士科の上級生青年と、魔力でそっと空中に浮いたままその青年の首を片手で握りしめて持ち上げているリディアの姿だった。
「……アルカ。リディアさんがいじめられたの? それともいじめているの?」
「えっと……さっきは確かに……」
私たちが混乱している中で、リディアに首を握られた青年が四肢をもがいた。その周りには真ん中がぽっかり開いたトレイと中身がこぼれた器、汚れた椅子や食卓、どこかから持ってきたと見られるネズミの死体などが散らかっていた。
それだけ見てもアルカがどんなものを見たのか大体分かる気がする。でも……真っ二つに切れた食卓と青年の首を握りしめるリディアだけは一体どういうことなのか分からない。
「あの、リディアさん?」
「……あ、テリアさん。来ましたわね」
リディアは何気ない顔で青年をさっと投げ捨てた。青年はドタバタと大きな音を立てて食卓と椅子を倒した。
「ごめんなさい。恥ずかしい姿を見せてしまいました」
「いいえ、大丈夫ですわ。それよりあの人が何をしたんですの?」
「……リディアを責めないんですの?」
リディアは暗い顔で目を伏せた。こんな騒動を起こしてしまったことに罪悪感を感じるのだろう。
しかし、私はリディアの心配を平気で笑い飛ばした。
「リディアさんが自分の本位でこんなことをする人ではないですからね。それでも次はもう少し穏健な手段でお願いしますわ」
「あ……はい」
まぁ、リディアにはこれくらいでいいだろう。それより飛ばされてしまった青年の方を見ようか。
近づいてみると面識のある人だった。別によく知っているわけではないけど、父上について王都の宴会や舞踏会に出席した時に何度か会った人だった。
「ええ……リソン伯爵家の方でしたわね。えっと……ドロイさん?」
「だ、だれ……くっ!?」
ドロイは椅子を押しのけて目を上げた。そして私を見て驚いた。まぁ、私は彼のことをよく知らなくても、彼は私のことを知っているだろう。四大公爵家なら貴族の注目を集めるものだから。
体面のせいか、それとも私の前だからか、ドロイはすぐに立ち上がって身だしなみを整えた。
「それで? 貴方は一体何をしたんですの?」
「ふ、ふざけるな! ……いでください。僕は被害者です。あの女……アルケンノヴァ公女が一方的に暴行を……」
努めて言葉を整えながら話を続けたドロイだったけれど、まだ話を終える前に瞬く間に近づいてきたリディアが彼の顔に食べ物をかけた。ちらっと見ると、床に散らかってしまった食べ物を器に素早く盛ってきたようだった。
おお、豪快だね……。
「一方的に暴行、ですか。なるほど。貴方の『切断』の特性でリディアのトレイの下を開いて器を落とさせ、リディアが座ろうとしていた場所を土ぼこりで汚し、リディアの目の前でネズミの死体を振りながら相応しい料理だと皮肉っても、貴方はあくまで無実の被害者なのですね?」
「くっ……! だ、だが僕は暴力を振るってはいません。今度のことはあくまでも……」
「ドロイ・ニュート・リソン」
その瞬間、リディアはドロイの頭を握りしめ、隣のテーブルに力強く突っ込んだ。食卓が壊れた。それでも騎士科らしく身体強化がどの程度されているのか血は出ておらず、本人の顔からも痛みよりは屈辱感だけが感じられた。
「リソン伯爵家の四男。早くも後継者紛争で淘汰されて見込みがなくなって久しいし、特に個人として将来を嘱望されることもないんですよね。兄様にへつらって何か末席でももらおうとするんですの? 汚くて気持ち悪い」
「うぐっ……! この、離せ!」
「離す前にまず分際を教えますの」
グググッ、リディアの握力でドロイの頭から尋常でない音がした。ぐあっ、やめろって言葉が出たけどリディアは無視して続けた。
「特にリディアが有力な後継者のようなものではありませんけど、それでも厳然たる公女です。爵位を受け継ぐ見込みもない伯爵家の四男なんかが勝手に侮辱してもいい立場ではありませんよね。分かりますの?」
「くっ、離さなければ父上に告発を……!」
「いくらでもやってみまなさい。しかし、その前に心に刻みつける方がいいでしょう。兄様の蛮行に参加してリディアを虐待した生徒たちの家柄に対して、果たして私の父上はどのような措置を取るのでしょうか?」
「……!?」
「告発でも何でも勝手にしてください。リディアが受ける罰くらいはいくらでも甘受するから。どうせ貴方がどうしてもリディアはリディアを苦しめることに参加した一派全てをぶっ壊します。さあ、一度、思う存分、モガイテミロ」
やっとリディアは手を離した。ドロイは歯ぎしりをしながらも、それ以上口を滑らさずリディアを一度睨みてからこの場から逃げた。
リディアは逃げるドロイに目も向けずに食堂の中を見回した。多くの生徒が遠くから騒ぎを眺めていた。
ドロイの蛮行を傍観した生徒たちに対する怒り……はなかった。そもそもドロイは継承の可能性は薄いとしても、とりあえず伯爵家の令息。そしてアルケンノヴァ公爵家の有力後継者であるディオスの連中だ。そんな彼の行動を制止できる生徒はそれほど多くない。
リディアもそれは知っているだろう。そのためか、彼女は生徒たちを糾弾する代わりに大声で宣言した。
「今のあのみっともないリソンのバカのように分際を忘れたい生徒がいたら、勝手にしてください。拒否しません。ただし、そのすべての行為はリディアに対する挑戦として受け止めます。そして……」
しばらく言葉を止めたリディアは突然魔力を放出した。まるで太陽のように熱い魔力だった。食堂の中に瞬く間に熱気が上がり、見守っていた生徒たちはその魔力量に驚愕したようにざわめいた。
「そのような行為をするすべての人に対して正式に決闘を申請します。ですからリディアとリディアの友達を侮辱したいのなら、リディアと決闘する覚悟くらいはして来てください」
リディアは学生たちの反応を見ずに背を向けた。
数日でこんな強硬な態度を見せることができるなんて、正直驚いた。
……でも彼女の特性はこれまで片鱗を見せてきたように、火と関係がある。そして性格も。この現実ではどうかゲームほど爆発しないことを願うけれど……。
顔に心配があらわれたのか、リディアが私を見て少し暗い顔をした。
「あの、テリアさん。お願いがあるのですけど……」
「ええ、何ですの?」
「あの……本当にごめんなさい、でも……その……」
……なるほど。
さまよう視線が壊れた食卓にしきりに向くのを見ると、私にこのめちゃくちゃを修復してほしいと言いたいようだった。まぁ、リディアには修復能力がないから仕方ない。
私は苦笑いしながらリディアの頭に手を置いた。
「たかがそんなことでそんなに申し訳なくなる必要はありませんよ。そのくらいは簡単にできますわ。代わりに次はあまり簡単に爆発しないでくださいね?」
そう言って魔力を噴き出して壊れた家具を整理し、汚れた床を掃除した。
そんな中、突然隣からアルカが割り込んだ。
「違います! リディアお姉さんはずっと我慢してたんですよ! それでもあの上級生のお兄さんがずっといじめました!」
―――――
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