第38話 堕天使さんのひとり時間ഒ ⸒⸒

「うん、しょ!」


 気合の声と共に、ティアは掛け毛布を陽当りの良い場所に掛ける。

 セミダブルサイズの掛け毛布なのでサイズが大きく、細身なティアにとっては持ち運びも大変だ。しかも、この家は全体的に陽当りが良くないので、陽射しがあるところまでは少し距離もある。大きな毛布の他、足元をちょろちょろとついて回るブラウニーを踏まないようにして運ぶのも一苦労だ。


「えっと……ブランケットはここで良いですよね。次は、何をしましょうか?」


 ティアは屈んでブラウニーの頭を撫でつつ、家主のいなくなった家の中をキョロキョロ見回して、小首を傾げた。

 家主ことエルディ=メイガスは今日ひとりで街まで行ってしまい、お留守番である。

 ゆっくりとしていろと彼からは言われたが、どうゆっくりすれば良いのかわからず、とりあえず家事を始めたのだった。今はちょうど掃除が終わって、掛け毛布を干すところまで終わった段階である。

 次は何をしようかと家の中を見回していると、ふと洗濯カゴに入れられた自身とエルディの衣服が視界に入った。

 ふたりとも着の身着のままでリントリムを訪れ、そのまま生活していたのでそれほど服を持っているわけではないが、安宿で生活していくうちに着替えも増えてきた。

 ティアは毎日同じ服でも気にならなかったのだが、天使のローブは目立つらしく、エルディが何着か服を買ってくれたのだ。一方のエルディも毎日同じ服を着ているのはどうの、とアリアから言われたらしく、服を何着か買っていた。


「あ。そういえば、お洋服のお手入れがまだでした」


 普段は夜のうちに綺麗にしてしまっているのだが、昨日は依頼が長引いて家に着いたのも遅かったが故に、洗濯物を放置したままだった。

 洗濯カゴに手を翳して、いつものように〈浄化魔法〉を唱えようとしたが、ティアはそこでぴたりと手を止めた。


「……今日は、普通にお洗濯してみましょうか」


 天使が当たり前に使っていた魔法は物質界ではかなり稀有らしく、〈浄化魔法〉や〈修繕魔法〉などは人前であまり使わないようにとエルディから言われていたのを思い出したのだ。

 ティアは洗濯カゴを持って浴室に向かうと、前の家主が置いたままにしてあった洗濯桶の前にカゴを置いた。

 洗濯桶は少し傷んでしまっていたが、使えない事はない。それに、もし壊れてしまったら、こっそりと〈修繕魔法〉で直してしまえば良いだけだ。

 浴室小屋の沸かし場の取っ手を引くと、水路を伝って水が出てくるので、その下に桶を置いて水を貯める。

 魔法で水を満たしてもよかったのだが、なるべく人間の生活習慣に慣れた方が良いと思い、所謂一般的な洗濯の作法に従った。

〈浄化魔法〉や〈修繕魔法〉もそうだが、普段から当たり前に使っていると、ふと人前でも当たり前に使ってしまいそうになる危険もある。無意識に使ってしまわないように、普段は人間の作法に従うのが良いだろう。

 桶に水を満たしてから、薬草洗剤を用いて手洗いをしていく。〈浄化魔法〉で慣れてしまっている身からすればかなり面倒だが、その面倒さも含めて人間の生活なのだから、慣れておいた方が良いだろう。手は魔法で保護しているが、そこだけは見逃して欲しい。

 洗濯を終えると、先程の掛け毛布を干してある場所まで移動し、物干し竿を立てて今度は洗濯物を干していく。といっても、それほど量があるわけではないので、すぐに終わった。


「ふぅ……お洗濯もお掃除も完了です!」


 部屋を見回して、ティアは満足げな笑みを浮かべた。

 特に変わった事などしていないが、彼女にとっては初めての家での生活。人間らしい生活を送れていると実感できて、何だか嬉しかった。


(夕飯の仕度はまだ早い、ですよね……そういえば、エルディ様は何時に帰ってくるのでしょうか?)


 再度家の中に戻ってベッドにごろんと横になる。

 まだ時刻は昼前。やる事がなくなってしまって、一気に暇になってしまった。


(エルディ様、今は何をしているのでしょう? 今頃アリアさんにお仕事を紹介してもらっている頃合いでしょうか)


 暇になれば、考えるのはエルディの事ばかりである。

 天界の事だとかは考えないようにすると、自然と頭に浮かぶのは彼の事だった。

 それも当然か、と思う。天使でなくなってしまった今のティアにとっては、エルディが全てと言っても過言ではない。


(ご飯、美味しいって言ってくれて嬉しかったです。もっと食べて欲しいな)


 エルディが使っていた枕に自然と頬ずりをして、ぎゅっと抱き締める。

 そこでふっと木々の隙間から見える青空を見やった。青空と木漏れ日でとても綺麗なはずなのに、どうしてか胸の中は満たされず、何だか退屈で面白くなかった。


「エルディ様、早く帰ってこないかな……」


 そう独り言ちた時だった。

 ブラウニーがとことこと寝室まで来て、きゅんきゅんと何かを求めるように鳴いた。


「あ、もしかしてお昼ごはんでしょうか? すぐに用意しますね」


 そこではっとして起き上がって、台所に向かい、ブラウニーの昼食を用意する。

 犬用のドライフードというものも昨日ベッドと一緒に買ってきてあるので、それをまずはブラウニーのお皿に入れる。その上に溶かして焼いた卵と千切りレタスを乗せて、味付けに黒すり胡麻をまぶした。


「どうぞ、食べて下さい」


 床に置いてそう言ったものの、ブラウニーは物欲しそうにそれを見ているだけで、ちょこんと座ったままだった。


「あ、そういえば合図をしないと食べないんでしたね。〝よし!〟です」


 ティアの言葉に反応して、すぐにがつがつと食べ始めた。

 この犬はよく教育されているらしく、〝よし〟と言わないと食べ物を口にしない。

 昨日も干し肉を与える際になかなか食べなかったので、どうしたものかと悩んでいたところ、エルディがお手やらおかわりやらと言うと、短い前足をぴょこんと差し出したので、「もしかして」とエルディが〝よし〟と言ったら食べ始めたのだ。


「ふふっ、美味しいですか? よかったです」


 尻尾をぶんぶん振りながらご飯を食べるブラウニーを見ていると、思わず笑みが漏れる。

 そこで、ふとエルディにお弁当を持たせていない事を思い出した。


(あれ……? そういえばエルディ様、お昼ごはんはどうするのでしょう?)


 今日彼は夕方くらいまで帰ってこないといっていたので、おそらく昼にわざわざ家に戻ってくる事などしないだろう。

 そこまで考えると、空腹で野垂れ死にそうになっているエルディの姿を頭の中で思い描くまで、そう時間は掛からなかった。


「エルディ様……大変です!」


 顔を青くしたティアは、すっと立ち上がってすぐさま台所で調理を始めたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る