定められし宇宙項⑤
「
のう、シェラタン」
ニュクスの視線はルイテンの後ろを見つめる。ルイテンは立ち上がり、上体を捻って振り返った。
そこに、シェラタンが立っていた。シェラタンは欠伸を噛み殺しながら、ニュクスの足元までやってくる。そして、彼女の前に跪いた。
その目は、まるで熱に浮かされたように、うっとりと、ぼんやりと、ニュクスを見上げる。
夢心地の表情。まるで、ニュクスに魅せられているよう。
それは、クロエへの愛を語った、ジャコビニ社長とよく似ていた。
「シェラタンさん……あなたは……」
ルイテンは気付く。
シェラタンは、ニュクスに心を奪われているのだと。
「そうだよ。僕は、ニュクス様に魅了されてる」
シェラタンは、ルイテンの疑問に対して、肯定の言葉を口にした。
「さっき言ってたのは、半分嘘。
僕が誰かと付き合ったり、結婚を考えたりできないのは、呪われていることだけが理由じゃない。
僕は、ニュクス様を愛しているから、他の誰かを愛するだなんて、考えられないんだよ」
そう語る間も、シェラタンはニュクスを見つめていて、ニュクスは慈愛のこもった瞳でシェラタンを見つめている。
ルイテンはぞっとした。自分まで、あのように心を奪われてしまいそうだったのかと。
「あなたは、
ルイテンは震えた声で問う。あの魅惑の眼差しを跳ね除けられたから良かったものの、まともに食らっていたならば、きっとシェラタンと同じ状態になっていたはず。
ニュクスはその問いに、首を振って答える。
「
まぁ、
シェラタンは立ち上がり、ルイテンを振り返る。
ルイテンは身構えた。
「ごめんね。でも、鯨の一族に魅惑は効かないから。大丈夫と判断してニュクス様に頼んでいたんだ」
シェラタンの説明に、ルイテンは目を瞬かせる。
「あぁ、そうじゃないね。
鯨の一族は、
シェラタンは再度説明するが、ルイテンにはやはり理解ができない。
ルイテンの歌は、聴いた物の認識能力をねじ曲げて、自分の存在を消す
だが、今までの経験から、それだけではないということも、薄々気付いていた。
シェダルの輝術が効かなかったことも、歓楽の魔女・ヴィオレの不可思議な術が効かなかったことも。どちらも自分が跳ね除けて、なかったことにしていたのなら説明がつく。
だが、本当に自分の歌に、そんな力があるものか。
「現に、自覚なき魔女の魅惑には、あてられてなかろう」
ニュクスは問う。
魔女だって?
「魔女、ですか?」
「自覚なき魔女のことよ」
ルイテンは眉を寄せる。
「クロエのことでしょ?」
続いて聞こえたのは、アヴィオールの声だ。どうやら三人の声を聞いて、目を覚ましたようである。彼は玄関からルイテンの隣にやって来ると、ニュクスを見あげて深々と頭を下げた。
「ニュクス、ルイに教えてあげてよ。
魔女は、竜とヒトの間に生まれるんでしょ。クロエが見た目通りの年齢なら、他の可能性は考えられない。だって、あなたは、竜の唯一の生き残りなんでしょ」
ルイテンは察した。ニュクスを見上げる。
信じられないと、そう思った。
そもそも、クロエが嘘をついているとは考えにくい。
ならば真実は、ルイテンが考察している通りということになるが、それを暴いてしまうのは、残酷なようにも思えた。
これをクロエに話せば、きっと傷付いてしまうのではないだろうかと。
ニュクスは目を細める。まるで「聞くな」と言われているようで、ルイテンは歯噛みした。
風が吹く。運ばれてくるいくつもの雪の粒は、竜が作り出した春の陽気にあてられて、瞬間、溶けて消えた。
「
暴くつもりはないと、言おうとした。
誰にだって、暴かれたくない秘密があるのだ。それを秘密のままにしておくことで良好な関係性が保たれるなら、それでいいと思っていた。
その言葉は遮られた。
屋敷の扉が、激しい音を立てて開かれる。
一同振り返ると、使用人がそこに立っていた。顔は青く、呼吸は激しい。彼は、ルイテンとアヴィオールの顔を交互に見て、こう言った。
「クロエ様がさらわれたそうです」
と。
ルイテンは、暫くの間理解ができず、声を出すこともできなかった。驚きの表情のまま、使用人を見つめる。
「誰に……?」
そう問いかけるのが精一杯だ。
使用人は、姿勢を正してルイテンに言う。
「二人組の男性とのことです」
ルイテンはすぐに察しがついた。
ダクティロス行きの列車に乗っていたシェダルとドラス。当初は自分を追っていたのだろうが、捕まえ損ねてしまったとなると、次の狙いは自ずとクロエに向かう。
クロエは大賢人に守られているとはいえ、それは非公式である。厳重に守られているわけではない。
隙を突かれてしまったのだろう。
「行かなきゃ」
ルイテンは踵を返し走り出す。
だが、春の陽気を抜けると、その先は極寒の雪山だ。雪に足を取られたルイテンは、冷たいそれに頭から倒れ込んでしまう。
口の中に、泥混じりの雪が入る。不快感に顔を顰め、慌ててそれを吐き出した。
「ルイ、その格好じゃ駄目だよ。ちゃんと下山の準備を整えてから……」
アヴィオールが声をかけるが、冷静さを欠いたルイテンには届かない。
「教団の狙いがわからないのに、ゆっくりなんてしてられない! 早く行かなきゃ!」
ルイテンは立ち上がり、駆け出そうとして、アヴィオールに手首を掴まれた。ルイテンは振り払おうとするが、強く掴まれて解けない。
アヴィオールは、ルイテンをじっと見つめる。
「落ち着いて」
強い声で言われ、ルイテンは少しばかり冷静さを取り戻した。白山を、装備不足のまま薄着で駆け下りるなど無理だと、ルイテン自身ようやく気付いた。
とはいえ、この山を悠長に下っていくのは時間がかかりすぎる。どうしたものか。
ルイテンが悩んでいると、シェラタンがニュクスへ提案をした。
「ニュクス様、お願いです。彼らをクラウディオスまで連れて行っていただけないでしょうか」
ルイテンの視線はニュクスに向かう。ニュクスは腕組みして考え込む。竜としての立場上、人間に関与することは躊躇われるのだろう。
「お願いします。
何故なら、と続けようとして、しかしルイテンは口を閉じる。ニュクスが抱える秘密を、暴くつもりはないのだ。例え、この場の全員がその答えに至っていたとしてもだ。
吹き付ける雪風は、やはり鋭い音を立てている。ルイテンは春の陽気の中に戻り、ニュクスの正面に立って頭を下げた。
「お願いします。助けてください」
ルイテンの声は震えていた。
ややあって、ニュクスが重たい口を開く。
「今回限りじゃ。二度目はない」
ルイテンは顔を上げる。
「ありがとうございます!」
「気が変わる前に
ルイテンは頷いた。
。.:*・゜
『定められし宇宙項』
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