第百八十二話 その男、歩く(後編)

 有無を言わさぬ一言で、下間何某を追い払った本願寺顕如は、振り返り穏やかな笑顔を浮かべた。


「さて、お見苦しいところを見せてしまいましたね。本多殿」


 先ほどまでの流れが大したことでもないような顕如の態度。

 日頃、自分のペースを崩さない本多正信であっても、たじろいでしまっている。


「ご配慮ありがたく……」

「それで? 御用というのは? 三河国の出ということですから、本證寺の絡みですか?」


「はい。私は非才なれど、本證寺第十代 空誓様の檄に応じ、本願寺の権利を守るべく戦いました。されど、結果として主君を裏切る結果となり、殿を悲しませてしまいました。私はその顔が忘れられず、同輩のように再び仕える気にもなれませんでした。殿が笑っていても、心では傷付いている。そう思えてしまって、側にいるという選択が出来なかったのです。教義のためだからと大切な人を傷つけるのが本当に良かったのか。それに対する答えが出ず、顕如様のお言葉で導いて欲しかったのです」

「なるほど……。本多殿はお優しいのですね。今の世は利己の気風が強く、己の利益のために裏切り、利があれば敵とも手を組む。勝つ者が正しく、負ける者には何も残らない。そんな世の中です。貴方のような御心の方には生き辛い世の中でしょう」


「しかし、弥陀如来の本願に縋り、一心に信ずれば極楽へ往けるのです。私のように教義に疑問を持つ不信心者には、相応の罰かもしれません」

「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。本多殿は有耶無耶という言葉をご存知ですか?」


 唐突に始まる問答。

 会話の主導権は常に顕如が握っている。


「存じております」

「この言葉、そもそもは仏教用語なのです。有耶無耶とは、存して有と為さず亡びて無と為さず。有っても有ると言えず、無くても無いとも言えない。本来はそういう意味なのです」


「有っても有ると言えず、無くても無いとも言えない……」

「従って有るのか無いのかはっきりしないことを有耶無耶という訳ですが、それはお釈迦様のお言葉の一つなのです。人というのは迷うものです。お釈迦様もそれはお認めなのです。そこに悩む必要はないのですよ」


 顕如の言葉を反芻している本多正信。その目は遠くを見据え、彼方の方へ。恐らく遠く離れた故郷を思い返しているのかもしれない。


 ただ、彼は聡い。顕如の論理の矛盾に気が付いたようだ。


「しかし教義では――」

「教義は教義。貴方の心は貴方の物です。貴方は死した後の極楽よりも、身近にいる方たちを大切にしたい。そういうお気持ちのようにお見受けしますが、いかがですか?」


 本願寺派の教義では一心に弥陀如来に縋ることで極楽浄土に往けるという。そう。一心に願うことを求めていて、疑問や悩みを挟む余地はない。

 それを顕如は肯定している節がある。


 顕如の質問は、それを前提としたものだからだ。


「はい。確かにそういう気持ちが強いのは自覚しております。しかし本願寺門徒として、それではいけないという気持ちもあります」

「貴方は御仏に縋るほど弱い御人には思えません。現に自分のやりたいことを成し遂げるために、こんなところまで来ているではありませんか。それは貴方の自力というものですよ」


「今の世は……。今の世は何なのでしょうか。肉親同士で争い、他国を攻め入り、奪い荒らしまわる。武士が武士であるために弱者を虐げ、強者に従う。時折考えてしまいます。この乱れた世。武士こそが諸悪の根源なのではないかと」

「そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。それでも、本多殿は武士であることを辞めないとおっしゃっていましたね?」


「それしか取り柄のない男にて」

「存外、他の武士の方も同じなのかもしれませんよ。今の世の流れに抗えず、疑問に思いながらも身を任せているだけなのかもしれません」


 他者の心は窺い知れない。悩みがなさそうに見えて、深い悩みを抱えていることもある。戦乱の世を嘆き、変えたいと思っていても、相手に伝わっていないことも当然あるだろう。


「そのようなこと、考えもしませんでした」

「かもしれないという仮定のお話です。ただ……、一人だけ。一人だけ、この世のあり方に疑問を持ち、行動している方がおられます」


「荒れた世を眺め、諦めるのではなく?」

「そうです。初めてお会いしてから数年。未だその志は折れていないようです」


「長く続く戦乱の世で、そのような奇特なお方が? 本当にいらっしゃるのですか?」

「もちろんです。山城国と摂津国を領し、戦乱の世を終わらせるために行動されている御方が」


「もしや公方様では? しかし、摂津国は三好からの預かり物。畿内も三好派で占められ、常のごとくお飾りとしての存在では?」

「かの御仁は、力を隠すのがお好きなようですからね。しかしそれも一昨年まで。六角家を中心とした反三好連合と争った戦では、八面六臂の活躍をされてましたよ。摂津国は三好義興様が義輝様に託したのが実情。国人衆も大人しく義輝様に従っておりますし」


「お飾りのはずの公方様がそこまで……」

「どうです? 噂などアテにならないでしょう?」


 噂など当てにならない。普通なら聞き流す言葉。

 しかし本多正信は気が付いた。その言い回しは下間何某に言われた言葉であったことを。そして、その言葉は顕如が現れる前であったことも。


「いやはや。一体、顕如様はどこからご存知なのですか?」

「はてさて。私のことはどうでも良いでしょう。今の世を憂うのなら、京の都に向かってはいかがです? 存外、気が合うと思いますよ?」


「私と公方様がですか? 気が合うというより、顔を合わせることすら難しいでしょう」

「なに。私からの紹介状を出せば、すぐに会えますよ。おそらく紹介状など無くても会えると思いますがね」


「まさか。公方様ですよ?」

「貴方は本願寺法主の私にも会っているではありませんか」


「そ、それは……」

「意思を持ち、行動する者には道が拓けます。進むも進まぬも己次第」


「……顕如様のお導きに従いまする」

「貴方にとって大切なものを大切にしなさい。それは人の摂理です。それでは私はこれで」


 予想外の話の展開に呆然とする本多正信。

 彼が気を持ち直したのは、顕如からの紹介状を受け取った四半刻ほど経ってからだった。



 その間、珍しく本人が筆を取っていた顕如は、楽し気に筆を走らせていた。


「気まぐれの出会いがこのような運びになるとは。かの人物と義輝様なら似た者同士気が合うかもしれません。もしくは同族嫌悪で仲互いするか……。どちらにせよ、真心を持つ人間には生き辛い世の中です。今も義輝様には危難が降りかかっているようですし、どうなることやら。それもこれも全ては御心のままにということですね」


 流麗な筆跡とは裏腹に、何やら荒れそうな事態が起きつつあるらしい。

 本願寺顕如はそれを掴んでいるが、当の本人たちはそれを把握しているのだろうか。

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