4-12 大嫌い

 みかんとゆず、そしてすだちが出ていったカフェの店内にいるのは、らいむとはっさくだけ。三人の姿が見えなくなっても、らいむは普段と変わらず、穏やかな微笑みを浮かべている。鼻歌さえ奏で、カウンターの奥で上機嫌に手を動かしている。

 はっさくはなにも言わず、ソファ席で足を組みながら、目を閉じていた。


「はつ、お待たせしました」


 らいむが盆を手に、カウンター奥から出てくる。テーブルの上に、持ってきたカップと皿を置いていく。

 はっさくが片目を開けた。ソーサーにのせられた白いカップには、いつもブラックコーヒーが淹れられているはずだが、何も入っていない。ガトーショコラがのっているはずの皿も空で、フォークがひとつ、添えられているだけ。


「どうしました、はつ? 飲まないんですか?」


 らいむが微笑みながら、首を傾げる。

 はっさくは真っ白な食器を見つめたまま、なにも言わない。なにも言えない。

 細い指が、空の皿とフォークをつまんで持っていく。


「せっかく作ったんですから、食べてください?」


 左手で皿を持ち、右手でつまむフォークを横にしてゆっくりと皿に押し当てる。まるでガトーショコラを切り分けるように。切り分けたケーキをフォークにのせるように、すくう動作をして、それをはっさくの口もとへと持っていく。


「あーん」


 なにものっていない金属の先が、唇に触れた。

 どこまでも優しい微笑みが、目の前にある。

 はっさくは口を開けた。舌に触れたのは、硬い無機質な感触だけ。それでも、いつものくどいほどの甘さを求めるように、味のない空気を嚥下えんげする。


 口から引き抜かれたフォークが、音を立てて床に落ちた。


「どうして、黙っているんですか」


 耳もとでささやかれたのは、氷を肌に押しつけるような冷たい声。

 ハッとはっさくは、らいむを見た。さきほどのまでの微笑みが消えている。身体を伸ばし、明かりを背にしてこちらを見下ろす顔は、無表情で影が掛かっている。


「なにも、ないじゃないですか。コーヒーも、ケーキも、……れもんも、いないじゃないですか」


 はっさくの身に、今まで感じたことのない悪寒が走る。

 表情の消えた黒い瞳が、はっさくを捉えて放さない。


「私は、大切な仲間を忘れていました。どうして言ってくれなかったんですか? どうして教えてくれなかったんですか? どうして隠していたんですか? どうして? どうして? どうして? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!」


 口から漏れる疑問が、しだいに絶叫へと変わっていく。顔を歪め、頭を抱え、髪の毛を引き抜く勢いで掻きむしる。

 はっさくはとっさに立ち上がり、自虐を始めるらいむへ手を伸ばした。


「らい! やめろ!」

「触らないでくださいっ!」


 乾いた音が、店内に響いた。

 強制的に視線をそらされ、らいむに、はたかれたのだと知る。

 向き直ると、髪を乱し、くしゃくしゃに歪んだ顔が、こちらを睨んでいた。


「はつなんて、大っ嫌い!!」


 反吐を吐くように言い捨て、らいむはスタッフオンリーの扉へ駆け込んでいく。

 呼び止めようと開けた口からは、何の言葉も出てこない。扉が閉まる音が空しく響く。一人の取り残されたはっさくは、おもむろに左頬へ手を添えた。

 心の奥底をえぐる痛みが、激しさを増す。



   *   *   *



 一番奥の赤い扉へ入ったらいむは、崩れるようにその場にへたりこんだ。

 苦しい。頭が痛い。息が思うようにできない。思考がぐちゃぐちゃになり、自我を保つのでやっとだ。このまま気を失ったほうが楽かもしれない。


「らいむ、大丈夫?」


 ふわりと羽根が落ちるように、柔らかな声が耳朶を撫でた。

 動くことさえままならないらいむのそばに、一人の青年が両膝をつく。そのまま背中に手を回し、震える身体を抱き寄せた。白い翼が、全身を包み込む。


「れもん、れもん、れもん――!」


 すがるように、らいむは手を伸ばす。背中に触れ、翼に触れ、髪に触れ、その存在を確かめる。肌に伝わる温かな温度、鼻孔をくすぐる懐かしい香り。

 それでも、割れるように痛む頭の中で、かすかに残る理性が警鐘を鳴らしている。


「あなたは……だれ……ですか……。れもんは……もう……」


 発した言葉が、茨のように自分の身を締め付ける。狂ったように叫びたくなる衝動に駆られ、背中を優しく撫でられる感触にあやされる。


「可哀想ならいむ。でも大丈夫。僕はずっとそばにいるよ」


 頬に両手を添えられ、顔を持ち上げられる。

 視界いっぱいに映るのは、赤い瞳を細め、白い肌に包まれた美貌。

 その言葉に、その笑みに、らいむは溺れた。頭の痛みはもう感じない。すべてを手放すと、身体がふっと楽になった。


「だから、僕をもっと思い出してよ? 鮮明に、強烈に、頭から離れないほどに。僕のすべてを思い出して?」


 意味なんてどうでもいい。耳に入ってくる声が、優しく甘く心に溶けていく。

 らいむは青年の肩に顔を預け、彼を強く抱き締めて目を閉じた。

 まぶたの裏に広がるのは、地獄絵図。


「ソレガ、僕ノ餌ニナル」


 青年の背中の下から伸びる、白い尻尾が愉快に揺れる。




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