「其（そ）処（こ）から下りるのだと思われる、松の木の細くッて度（ど）外（はず）れに背（せ）の高い、ひょろひょろした凡（およ）そ五六間（けん）上までは小枝一ツもないのがある。其（その）中（なか）を潜（くぐ）ったが、仰（あお）ぐと梢（こずえ）に出て白い、月の形は此（こ）処（こ）でも別にかわりは無かった、浮（うき）世（よ）は何処（どこ）にあるか十（じゆう）三（さん）夜（や）で。

　先（さき）へ立った婦人（おんな）の姿が目さきを放（はな）れたから、松の幹に摑（つか）まって覗（のぞ）くと、つい下に居（い）た。

　仰（あお）向（む）いて、

（急に低くなりますから気をつけて。こりゃ貴僧（あなた）には足（あし）駄（だ）では無理でございましたか不知（しら）、宜（よろ）しくば草履とお取（とり）交（か）え申しましょう。）

　立（たち）後（おく）れたのを歩行（あるき）悩んだと察した様子、何（なに）が扨（さて）転げ落ちても早く行って蛭（ひる）の垢（あか）を落（おと）したさ。

（何（なに）、いけませんければ跣足（はだし）になります分（ぶん）のこと、何卒（どうぞ）お構いなく、嬢様に御心配をかけては済みません。）

（あれ、嬢様ですって、）と稍（やや）調子を高めて、艶麗（あでやか）に笑った。

（唯（はい）、唯（ただ）今（いま）あの爺（じい）様（さん）が、然（さ）よう申しましたように存じますが、夫人（おくさま）でございますか。）

（何（なん）にしても貴僧（あなた）には叔母（おば）さん位（くらい）な年紀（とし）ですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履も可（よ）うござんすけれど、刺（とげ）がささりますと不可（いけ）ません、それにじくじく湿（ぬ）れて居てお気味が悪（わる）うございましょうから）と向（むこ）う向（むき）でいいながら衣服（きもの）の片（かた）褄（つま）をぐいとあげた。真（まつ）白（しろ）なのが暗（やみ）まぎれ、歩行（ある）くと霜（しも）が消えて行（ゆ）くような。

　ずんずんずんずんと道を下りる、傍（かたわ）らの叢（くさむら）から、のさのさと出たのは蟇（ひき）で。

（あれ、気味が悪いよ。）というと婦人（おんな）は背後（うしろ）へ高々と踵（かがと）を上げて向（むこ）うへ飛んだ。

（お客様が被在（いらつ）しゃるではないかね、人の足になんか搦（から）まって、贅（ぜい）沢（たく）じゃあないか、お前（まえ）達（だち）は虫を吸（す）って居（い）れば沢（たく）山（さん）だよ。

　貴僧（あなた）ずんずん入（い）らっしゃいましな、何（ど）うもしはしません。恁（こう）云（い）う処ですからあんなものまで人（ひと）懐（なつ）かしゅうございます、厭（いや）じゃないかね、お前（まえ）達（だち）と友達を見たようで可愧（はずかし）い、あれ可（い）けませんよ。）

　蟇（ひき）はのさのさと又草を分けて入（はい）った、婦人（おんな）はむこうへずいと。

（さあ此（こ）の上（うえ）へ乗るんです、土が柔（やわら）かで壊（く）えますから地面は歩行（ある）かれません。）

　いかにも大木の僵（たお）れたのが草がくれに其（そ）の幹をあらわして居（い）る、乗ると足（あし）駄（だ）穿（ばき）で差（さし）支（つか）えがない、丸木だけれども可恐（おそろ）しく太いので、尤もこれを渡り果てると忽（たちま）ち流（ながれ）の音が耳に激（げき）した、それまでには余程の間（あいだ）。

　仰（あお）いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低（ひく）うなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さは凡そ計り知られぬ。

（貴僧（あなた）、此方（こちら）へ。）

といった婦人（おんな）はもう一息、目の下に立って待って居た。

　其（そ）処（こ）は早（は）や一面の岩で、岩の上（うえ）へ谷（たに）川（がわ）の水がかかって此（こ）処（こ）によどみを作って居る、川幅は一（いつ）間（けん）ばかり、水に臨（のぞ）めば音は然（さ）までにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、却って遠くの方（ほう）で凄（すさま）じく岩に砕ける響（ひびき）がする。

　向（むこ）う岸は又一（いち）座（ざ）の山の裾（すそ）で、頂の方（ほう）は真（まつ）暗（くら）だが、山の端（は）から其（その）山腹を射る月の光に照（てら）し出された辺（あたり）からは大石小石、栄螺（さざえ）のようなの、六（ろく）尺（しやく）角（かく）に切（きり）出（だ）したの、剣（つるぎ）のようなのやら、鞠（まり）の形をしたのやら、目の届く限り不残（のこらず）岩で、次第に大（おお）きく水に浸ったのは唯（ただ）小（こ）山（やま）のよう。」