四一話、廿の流転の門と、旅行一日目⑤

 夜。

 霧。

 煙が全てを包む中、ひとつ、またひとつの雪の粒がその隙間に入り込んだ。

 形を作っていく。

 次第に、それは姿を現す。

 雪兎。

 ───誰も、気づかない。




 霧に覆われているため、館にいるしかない。

 明日の話し合いをお風呂の中でする。

 部屋は十分に広いので、シーツなどを敷いてみんなで寝ることにした。

 寝っ転がるとどっと疲れが全身に伝わって、すぐに鴉羽は眠った。カリンが「今日は少し用事があるわ」と言って部屋を出ると、ミズーリはその後ろ姿に向かって「明日もあるから早めにねー」と囁くように言った。

 やえと二人でしばらく鴉羽の髪で遊んでいたが、ドリィネややえが寝付く頃にはせっかく敷いたシーツを完全無視して夢を見ていた。


 そして、カリンはというと──。

 下の階に降りて、受付の前のカウンターに座った。ダボッとした旅館の服(丁度のサイズがなかった)が程よく身体を隠し、つややかな小さい肩を見せている。

 お風呂後、二つ結びには戻さず、少し伸びてきた髪を乱したままにしていた。大人しく座ったまま、尖った耳にかかる髪を掬い上げ、頬杖をつく。

 煙がかっている一階。夜なので、電気もついていない。ただ、灯篭のようなものがひとつまたひとつと並んで、カリンの横姿をほのかに撫でるようにして照らす。


 ───コン。

 後ろから手が伸びてきて、目の前にグラスがひとつ置かれた。

「……」

「待たせたな」

 幼い男の子の声だ。振り返らずに、カリンが呟く。

「遅いわよ」

「ごめんってば」

 男の子は彼女の向かい側───カウンターの向こうに立った。

「そばに来てちょうだい」

「……なんでだよ……ああもう、わかったわかった」

 めんどくさそうに、男の子は───アシュビニャはカリンの横に椅子を引っ張ってきて、どてっと座った。


「「……」」

 二人は幾分か喋らなかった。


 先に沈黙を破ったのはアシュビニャだった。

「で、なんだよ。オレを呼んで」

「別になんでもないわ。勘違いしないでね」

「しないしない。……で、なんもないならオレ、寝るけど?」

「待って」

 アシュビニャの左手を、カリンが右手で握る。

「なんだよ」

「あなた」

「……」

「あたしのこと、どう思うのよ」

「……え」

 カリンの率直な質問に、アシュビニャが吃る。だが、カリンの方もそう聞き出すのが精一杯のようで、それだけ言って誤魔化すように渡されたグラスに唇をつけた。

 カランと、中で泳ぐ氷が心地よい音を立てた。

「美味しいわね」

「オレが作った」

「それは訊いてないわ」

「うっせぇな……一言が多いんだよ」

 アシュビニャが悪態をつく。それから話題を探るようにして、あるいは本心を探るようにして、カリンの髪に目をやった。

「髪、ぐっちゃぐちゃだな」

「……直せば?……あんたが」

「オレが」

「他に誰がいるのよ」

「オレ、髪いじりできねぇよ」

「……お姉ちゃんを悪く言った罰よ」

「それはごめん」彼は素直にそう謝った。特に拘泥することでもない。素直に言えばスッキリする。

「……ほら、やんなさいよ。あんたも結んでるじゃないの」

「オレも寝る時はしねぇよ」

「知らないわ。やらないならいいわ。……ビンタ千発で我慢してあげるわ」

「それおまえが疲れるだけだぞ。……あとなんか増えてるし。……ああ、わかったよもう、やりゃいいんだろ」

 少しわがままなような気がしたが、これが女とアシュビニャは割り切ることにした。

「……ズレても知らねぇぞ」

「それならやり直しね」

「はぁ?」

「当たり前じゃないの。あたしがいいと言うまで帰さないわ」

「だからごめんってば」

「さ、早く早く」

「……」

 仕方ない、とアシュビニャが立ち上がる。どこに行くの、とカリンが前を向いたまま言う。

「道具をとるんだよ。量が多いから黙って待ってろ」

「……専門的ね」

「おまえがやれって言うからだろ」

 そう言って、奥に消えていくアシュビニャ。それを目で追うこともなく、グラスをカランと揺らした。

 透明な硝子と半透明な磨り硝子。夜の時間の一粒また一粒を、なかのアシュビニャのジュースに溶け込ませ、そっと隠す。


 カリンにも、よく分からなかった。

 最初に目があったとき。

 何故か胸がドキッとした。

 ミズーリも、かつては経験したのかな。分からない。ただ、わかることがひとつ。

 あたしは、正常心を保てていない。

 何かが壊れそう。

 男の子がミズーリのことをサキュバスなんて言った時は、確かにイラついた。

 が、それ以外の感情もどこかにあった。

 だから、顔をぐっと近づけてみた。

 間違いない。

 この、謎の感覚。

 だから、確かめてみたかった。

 夜、下に来て、と言った。

 言えば分かるかもしれないと思った。

 寺院で、恋の占いをうけた。

 バッチリ今夜のことが出た。

 全身から、出ているらしい。

 恥ずかしい。

 ハーフエルフの女の子として、恥ずかしい。

 まだ、小学生よ。

 ミズーリからだって、好きな人がいるとは聞いたことがなかった。

 なのに、自分は。


 いや、考えすぎよ、あたし。

 ただのまぐれね。占いは、外れるのよ。

 だから、夜まで待った。

 そして男の子が現れた時、彼はグラスを渡してきた。

 そんなもの、頼んでいない。

 なによ、これ。

 素敵すぎるわ。

 ……ちょっとまって。

 違う。

 そんなわけないわ。

 あたしは、彼を叱りにやってきたのよ。

 お姉ちゃんの悪口を二度と言わせないように。

 ……あっ、ちょっとまってよ。

 なんであたし、口が勝手に。

 髪を触らせるなんて。

 こんなの。

 こんなのもう……。


「ほら、やるぞ」

「……うん」

 カリンが我に返る。

 横に並ぶ、一式。

 どれも高そうだ。漆塗りのケース。

 ひとつの瓶を取って、その蓋を開ける。

 アシュビニャはその瓶を傾けて、小さな手に液体を流した。

 それから、カリンの髪に触れた。


 アシュビニャにとっても、初めて女子の髪に触れることになる。姉のですら、触ったことがない。

 なのにこの女は……。

「おまえ、大胆だよな」

 髪にオイルを塗って、椿油の櫛で優しく梳かす。長くは無いが、綺麗だ。そして、香りがいい。アシュビニャはカリンの姉を思い浮かべた。

「どこがよ」

「行動が」

「……そう?」

「おまえといると、いちいちうるさく言われるから、疲れる」

「…………そう」

「でもなんか、気楽に話せるなっては思った」

「………………そう」

「なんでだろうな。オレ、おまえと会って一日しか経ってねぇんだぞ」

「……あたしも、不本意ね」

「不本意って思う奴が、髪を男に任せるかよ」

「……うっさいわね。エルフの里にぶち込むわよ」

「やれるもんならな……あ、動くなってば」

 撫でるようにして、髪を整えていく。

「……結構上手じゃない」

「素直に受け止めておく」

「……素直でいいわ」

「目をつぶれ」

「なによ」

「言うこと聞け。やれって言ったのはおまえだ」

「……わかったわ。好きにしてちょうだい」

 アシュビニャが、カリンの前に回る。櫛を通して、毛先を整える。「こうか」「いや、こうか」と小言を呟いている。

「……なにしてんのよ」

「はい、終わった」

「え、まだ結んでもらってないわよ」

 カリンが手首につけているヘアゴムを一本取った。

「鏡をみろ」

 手鏡を渡され、中を覗くカリン。

「これって……」と目を丸くした。頬を染める。

「……二つ結びじゃあつまんねぇしめんどくさいから、やってみた。……おまえ、こいつがすきなんだろ」

「……」

 鏡に映るのは、鴉羽の髪型をしたカリン。

 確かに、憧れの存在だ。

「……」

「ならこれでもいいだろ」

「もう、いいわ」

「おう、じゃあ、寝るから」

「自分で結ぶわ」

「はっ?おい、せっかく……」

「あたしね、今日寺院に行ったの」

 そう言って、カリンはヘアゴムで適当に、後ろで髪をまとめた。

「……」

「そこでね、恋の占いをしたの」

「そんなもの信じるのかよ」

「今夜に出会いがあるって言われたの」

「……」

 そう言われてはぐうの音も出ない。

「おまえ、随分遠くへ行ったんだな」

「それはいまどうでもいいわ」

「……」

「で、あたしはどんな気持ちで、あなたと向かい合ってるのかしらって」

「それが知りたくて、オレを呼んだと」

「……うん」

「か、仮に」

 アシュビニャが座る。

 ここまで積極的に話しかけてきた女の子は居なかった。

 ここ数年、敵の数が増えていて、警戒ばかりしていた。

 だから彼女らの到来には驚いたし、嫌な気分がした。

 しかし怒れなかった。まず、全員白いリボンをしている。これは、月兎が産後一年強とかに貰うものだ。

 易々と他人が得られるものでは無い。この中だと、灰色の髪の女性が月兎。彼女が許したのかもしれない。が、それでも、生産職が許すとは思えない。

 有り得るのがひとつ。

 この女性は生産職にこんなお願いできるほど高位の存在、かつ、彼女がこの場の全員を信頼している、ということだ。

 エルフの姉の方が近寄った時に、別種族で悪口を言ったのは確かに良くなかった。

 だが、妹が出てきて、自分を押し倒す程のことはしていないだろ、と一秒前は思っていた。

 壁と、このカリンという少女に挟まれた。

 第一印象、綺麗な髪、だった。

 肌も質がいい。瞳も澄んでいる。

 久しぶりに、異種族をみたアシュビニャはすこし興奮していた。

 それを隠すように、もがいたりした。

 アシュビニャは昔、自分と遊んでくれたエルフを思い出した。

 あれはたまたまだった。裏庭で、こっそり遊んだ。あの時のエルフも、同じような顔だった。その後規制が厳しくなって、アシュビニャの家族は異種族の交流を禁止してからは、月兎しか見かけなかった。

 また会えれば、と思ったが、こんな広い世界だ。会いたいと思って会えるものではない。

 新鮮感のない日常。

 それが、カリンと出会った一瞬で、色付いたような気がした。

 それこそ、霧が晴れたような気分だった。

 この子は、あの時の子かは分からない。だが、この出会いを捨てたくない。アシュビニャは心のどこかで、そう思っていた。


 ───顔が近い。

 この女は、自分が何をしているのか気づいているのだろうか。

 吐息すら聞こえるんだぞ。

 正直対応の仕方が分からなかった。

 ただ、口ごたえができる相手だった。

 会話の内容は刺があるが、何となく楽しかった。

 何年ぶりの、高鳴りだろうか。

 こうやって夜に呼ばれたんだから、オレだって。

 自分の気持ちをはっきりしてみたい。


「オレとい、一緒にいられたとしたら」

「としたら?」

「おまえは、幸せ?」

「……さあね。それはあなたしだいね」

「なんでだよ、おまえしだいでもあるだろ」

「……なんでよ」

「おまえが、その……オレに応えてくれなかったら、意味ねぇだろって」

「ふぅーん」

 ようやく、カリンはアシュビニャをみた。

 目は半分くらい開けている。にやけている。あるいは、溶けている。

「……なんだよ」

「アシュビニャって呼びにくいわ」

「好きに呼べ」

「アシュで」

「適当だな」

「ビニャ」

「それは違う……もうアシュでいいよ」

「……アシュ」

 早速呼び直すカリン。「あたしのことも、好きに呼んでちょうだい」と付け足すと「おう」と返された。


「ダメね」

「なにが」

「あたしたちには早いわ」

「……なにがだよ」アシュが目を逸らす。

「わかってるくせに」

「意味わかんねぇ……あっ」

 カリンはアシュビニャに顔を近づけた。

「……おまえ、絶対早いと思ってねぇだろ」

「思ってるわ。まだ出会って一日よ」

「それオレのセリフな……オレもう寝たいんだけど

「そうね、あたしもよ」

「じゃあ戻れよ。それ、飲み終わったんなら、オレが洗うから」

「……ありがと」

 そう言って、カリンは髪を撫でて立ち上がった。

「髪も、ありがとうね」

「おう」

「おやすみ」

「なあ」

「……なによ」

「おまえ、なんか欲しいもの───ないか?」


 固まるカリン。

 それからしばらく考えて、

「そうね。うさぎが欲しいわね。真っ白でふわふわの」と答えた。

「……おう」

「おやすみ」

「おやすみ」



 カリンが部屋に戻る。

 受付は、しぃんと静まり返っていた。

 アシュビニャは十数分、カウンターに腰掛けていた。

 突然、立ち上がった。

 それから服を着替えた。

 吹雪く窓の外を見て、彼はそっと言葉を紡いだ。

「……白い……うさぎ……」

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