大水槽

「早苗さん、まだお見せするものがあるのよ。さあこちらへいらっしゃい。今度は、動物園ではなくて、水族館よ。あたしの自慢の水族館なのよ」

「黒トカゲ」は、ふるえおののく早苗さんを、手を取って引き立てながら、また次の角を曲がった。

 そこは、長い地下道の行きづまりになっていて、その奥にガラス張りの大水槽がすえてある。水槽のま上に、非常に明かるい電燈がとりつけてあるので、正面の厚いガラス板をとおして、水の中の模様が、手に取るように眺められた。

 水槽は間口、奥行、深さ、ともに一間ほどもあって、その底には、異様な海草が、無数の蛇のように、もつれ合ってゆらいでいる。

 だが、これがどうして水族館なのであろう。その海草のほかは、魚類の影さえ見えないではないか。「おさかながいないでしょう。でも、不思議がることはないわ。あたしの動物園には、けだものなんていなかったのですもの。水族館におさかながいないからって、ちっともおかしいことはありゃしないわ」

 黒衣婦人は薄笑いをして、また恐ろしい雄弁をふるいはじめた。

「この中へ、やっぱり人間を入れて遊ぶのよ。おさかななんかよりは、どのくらいおもしろいかもしれやしないわ。檻の中で昂奮している人間も美しいけれど、この水の中へ投げこまれた人間の、水中ダンスがどんなにすばらしいでしょう……」

 早苗さんには、それはもう黒衣婦人の声ではなくて、まざまざと限界一ぱいにひろがる怪奇映画の幻であった。薄黒い水の中に、何か白いものがうごめいていた。ウヨウヨと鎌首をもたげた蛇のかたまりの中から、ボーッと巨大な人の顔が、ガラスの面に現われて、アップアップと鯉のように苦しい呼吸をしている。眼をつむって、まゆをしかめて……その顔は男ではない。年寄りでもない。若い女だ……いやそうではない。これは決して他人ではない。そのもつれた蛇の中でもがいているのは、あの、早苗さん自身なのだ。

「まあ、すばらしいと思わない。なんて美しいお芝居でしょう。どんな名画だって、どんな彫刻だって、それから、どんな舞踊の天才だって、これほどの美を表現したことがあったでしょうか。命と引きかえの芸術だわ……」

 だが、早苗さんはもう、この奇怪な雄弁を聞いてはいなかった。そんなには息がつづかなかったのだ。彼女は幻想の中で、おびただしい水をんだ。もがけるだけもがいた。そして、とうとう力がつきてしまったのだ。身にあまる恐怖と苦悶とが、ついに彼女を失神させてしまったのだ。

 黒衣婦人がふと気づいて彼女を支えようと両手をさし出した時には、早苗さんはもう、くらげのようにクナクナと、そこのコンクリートの床の上に、くず折れてしまっていた。

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