第8話 英雄は色を好む

 高級な家具で揃えられた豪勢な広い部屋は、水の音が響いていた。

 窓ガラスから見える美しい夜景が、この場所をマンションの高層階だと示している。

 部屋の角に配置されたキングサイズのベッドに、1人の女性が座っていた。

 バスローブをまとい、外に広がる夜景を眺める彼女は、これから始まるロマンスに心を踊らせていた。


 ――シャワーの音が止む。

 バスルームの扉が開くと、水の滴る1人の男が現れた。

 180cmを優に超える身長、美を追求し洗練された筋肉、目鼻立ちのハッキリした面立ち。

 男は世間一般で言うハンサムに部類された。10人に聞けば9人はハンサムだと言うだろう。残りの1人は美的感覚が狂っていると言われてもおかしくはない。

 それほどまでに良い男なのだ。


 彼の名は春夏冬あきなしケン。職業は俳優。

 子役時代を経て、大成したアクション俳優であった。

 先日公開された映画【英雄アキレスvs怪物てけてけ】にも主演男優として出演している。

 この映画は“英雄ミチアケシリーズ”の公式スピンオフとして制作された作品であり、ケン自身も力を入れて撮影に取り組んでいた。


「待たせたね、サナエさん」


「いいえ全然。ケンさんのことを思って待っていたわ」


「貴女にこうも思って頂けるとは……僕は幸せ者ですね」


「私こそ幸せよ。そうだ、乾杯しましょ!」


 サナエはグラスにワインを注ぐ。液体は物体に沿って流動し、透明なグラスを真っ赤に着飾った。


「何に乾杯しようか」


「私たちの映画に。どうかしら?」


「それは良い。では“怪物てけてけ”に」


「ふふふ、なら“英雄アキレス”に」


『乾杯』


 グラスは互いに接触し、軽やかな音色を奏でた。

 2人は同時にグラスを口につけ、喉を朱色に染め上げる。


「ごめんなさい。私ワインの味はそこまで分からなくて。ちょっと気取ってしまったわ」


「君は素直だな。そこが良いところでもある」


「ケンさん、好きよ」


「愛してるよ。サナエさん」


 ケンとサナエは互いの腰に手を回し、唇を重ね合わせる。

 長く、濃厚なキスは2人の脳に快楽物質を否が応でも流し込んだ。麻薬にも似たそれに道徳、倫理観が共に崩れ去り現実は曖昧になる。

 数十秒後、2人の口元はてらてらと糸を弾いて離れた。

 抱き合ったままサナエはケンの瞳を見つめる。

 ケンは無言のまま彼女を見つめ返した。


「……ケンさん?」


「やはり貴女は美しい」


「えっ?」


 突如、サナエの腰に回された腕に力が入る。感情が昂り力強く抱きしめたのでは無い。

 まるで万力がギリギリと締め上げるように、その力が増していく。


「あぐっ!!……がッ!ケ、ケンさん痛いっ!!止めて……!」


 サナエはその強さに思わず懇願の声漏れる。しかし、締め上げる腕の強さは増す一方だ。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ……!!」


「いいよサナエさん!もっと!もっと!その表情を見せてくれ!!」


 サナエはケンの顔を見て恐怖を覚えた。

 瞳孔は大きく開き、口角は絵画に描かれた悪魔の様につり上がっていた。その口からは涎が際限なく垂れており、恍惚に満ちた表情を浮かべている。


「あぐぅぁあぁぁぁぁっ!!」


「サナエさんの口から苦しそうな声が聞けるなんて、僕は本当に幸せ者だぁ……!その魅惑的な声音でもっと私を昂らせてくれぇ!!」


 もはやケンにハンサムの面影は無い。欲情と狂気を混在させた怪物がいるだけだった。

 サナエに残された選択肢は、この怪物に捕食されることのみだった。


「アァァァァァッ!!」


 べきり。

 骨の折れる鈍い音が狂気の蔓延するこの部屋に響く。

 一際大きな叫び声を上げたサナエの脊椎が、ケンによって鯖折りにされたのだ。

 あまりの痛みに白目を向くサナエを見て、ケンはようやくその腕から彼女を解放した。


「ハァハァハァハァ……。堪らない、堪らない堪らない堪らない堪らないッ!!

 女性をこの手で力任せに屈服させる、現代においてタブー視され、犯罪に位置するこの行いを僕は堪らなく愛しているッ!!」


 息を荒らげ、この世の汚濁を煮詰めた様な下劣な言葉を、ケンは捲し立てた。


「……ハッ!?」


 サナエの元に飛んでいた意識が戻る。自分の身に起こった情報を彼女は未だ整理出来ていないが、すぐ側で発狂する大男を視界に捉える。それは自身の現状を理解するには十分過ぎる情報だった。

 彼女は真っ先に足に力を入れ立ち上がろうとする。が、動けない。

 否、動かないのだ。足がすくんで動けないのではなく、そもそも下半身の感覚が無いのだ。

 驚きに声を上げようも、もはやその体力さえ残っていない。

 しかし人間とは不思議なもので、極限状態に晒されると、その自称においての最適解を導くことがある。


 サナエもまた、導き出した1人だった。

 彼女はまだ自由に動く両手を見つめる。数秒の葛藤の後、覚悟を決め彼女は手を地面につき、思い切り前後へ動かしたのだ。


「はっ!はっ!はっ!はっ!」


 一目散に玄関を目指す彼女の姿はまるで都市伝説“てけてけ”だった。

 恐怖で分泌されたアドレナリンは肉体の制限を解除し、彼女は加速する。無様かつ醜い動きだが、逃げることに全力を尽くすその姿には美しささえ感じてしまう。


「はっ!はっ!はっ!……あと少しっ!」


 扉まであと数歩。彼女が上半身を無理やり引き起こし、ドアノブへ手をかけようと瞬間、背中に重力がのしかかる。

 肺の空気が一瞬で抜け、思わず呼吸が止まる。


「かはっ!?」


「素晴らしい……!予想以上だよサナエさん。君の生への執念は。

 その執着が映画でも発揮されていたんだね。

 ラストシーンはスタント無しでのお互い必死の取っ組み合い。

 良いシーンが取れたから良かったものの、一歩間違えれば私のアキレス腱は噛みちぎられていた。

 僕は君の生存意識の高さに惹かれたんだ。だから絶対にこの手で息の根を止める」


「ひっ……!!いや、やめっろ!!」


「ぐあっ!!」


 サナエは身体をねじ曲げ、ケンの踏みつけから逃れる。そのまま勢いよく跳ね上がり、足首に食らいついた。


「まだ、歯向かうとは……活きがいいね。映画撮影のリベンジかいっ?」


 ケンは食らいつくサナエを引き剥がし、ドアに叩きつけた。

 最後まで顎の力を緩めなかったサナエの前歯は、3本折れていた。

 ケンの左踵かかとには彼女の歯が深々と突き刺さっている。


「ガッ……ぐぎっ……あっ」


 サナエは首に手をかけられ、気道を塞がれる。酸素が欠乏し視界がチカチカと揺らぐ。もはや彼女には、水に溺れる虫のように藻掻もがくくことしか出来なかった。

 首筋には彼女の死をカウントするように、徐々に鬱血痕が浮かび上がる。


「僕は気に入った女は全てこの手で殺してきた。警察にもまだ見つかっていないんだ。

 だが今回は世間的に有名な君を殺す。全国に大々的な発表もあるだろう。

 日本の警察は優秀だ。僕の痕跡さえ見つければすぐにでも逮捕に踏み切るだろう。

 つまり君を殺すことはデメリットでしかないんだ。

 じゃあなんで殺すかって?」


 サナエの脳にその質問を処理する力は残っていなかった。

 そんなことはお構いなしにケンは語り続ける。


「挑戦だよ。警察に挑戦するんだ。

 僕には神異が授けられた。それもとびきり上級の神異だ。

 英雄アキレスも神異を持っていたがアレはフィクションだ。演じた僕自身に神異は宿っていなかった。

 演じれば演じるほど、現実との乖離を感じて悔しかったよ。

 だが、そんな僕に神様は微笑んだ。

 分かるかい?憧れた力が手に入ったら思い切り奮ってみたいと思うのは普通だろう?

 ……おっとごめんよ、もう聞こえてないか」


 ゴキリ、と嫌な音を立てサナエの首の骨はへし折られる。

 死因は窒息か頚椎損傷けいついそんしょうか。どちらにせよ、松島サナエを死に至らしめたのは春夏冬ケンだ。

 だが、彼に罪悪感は無い。あるとすれば下半身の違和感だろう。


「ふぅ……イクサバ様には感謝しないとな。まさか背骨までへし折ってしまうとは。神異とは末恐ろしいね」


 ケンは髪をかきあげ、己の力に酔いしれる。

 エクスタシーの余韻を残したまま、スマートフォンを取り出しある電話番号へ繋いだ。


「あぁ、僕だよ。いつもの様に死体処理を頼みたい。

 ……待ってくれ。今回はバラバラにして燃やすんじゃない。

 川に沈めろ。あえて痕跡を残すんだ。

 ……安心してくれ。僕がもし捕まっても、君たちのことは話さないよ。約束しよう。

 ……あぁ、金はいつもの口座に。そんなに念を押さなくても分かっているよ。じゃあまた」


 ケンは電話の相手に別れを告げると、これから降りかかる困難に心を震わせた。

 冷静さを取り戻すため、大きく息を吐くとようやく違和感の正体に気付いた。


「パンツ、洗わないとな」

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