スラム『エスティラハ』


裏口の扉を開けると、目の前には野菜くずをカゴにまとめているレイラが目の前に立っていた。

急に扉を開けてきたことに驚いたレイラの蜂蜜色の目は大きく見開かれているが、イマルは気づかずにそのまま興奮して先ほど起こった事件を報告する。


「レイラお姉様!ピエロサンが壁から落ちました!」

「ぴ、ピエロサン?誰それ..お友達?」

「林檎くれた不審者、です!」

その後も強烈な情景を伝えんと必死にイマルは少ない語彙を身振り手振りで補おうとするも、レイラにはなかなか伝わらない。

レイラはなおも話し続けようとするイマルを手で制し、ガラスのコップに入った水をすすめる。

「とりあえず、その..ピエロサン?とやらは多分無事よ」

その言葉になぜ?と言わんばかりの顔をしているイマルの額に、レイラはコツリと差し出していたコップを当てて眉尻を下げる。

「飲みさしでごめんなさいね。それを全部飲んで、そしたらピエロサンと出会ったところから話してちょうだい?」

きっとその人人間じゃないから。と言葉を切るレイラの言葉にやっと納得したイマルは、顔の前に出されたコップを両手で受け取ると、コクコクと静かに頷いてから嚥下し始める。

両手で可愛らしく水を飲んでいるイマルの姿をレイラは横目に見ると、小さく息を吐く。

(この目を離した1、2時間でどれだけの問題をくっつけて帰ってきたのかしらこの子は..)

ピエロサンとは、壁から落ちたとは、林檎くれた不審者とは..。

レイラの思考には白塗りに林檎を鼻につけたピエロが鼻から林檎を取って困惑するイマルに渡している姿がありありと浮かんでいる。


(いや..そんな怪しいものにイマルちゃんが警戒心を出さないわけ..)

ある、大ありである。

この人間屋という極上の檻で育った少女にはおそらく何の警戒心もない。何故なら自分が何かされるのが当たり前の世界の人間だから。

レイラは赤く塗られた爪で頭を強くかいてから、水をすっかり飲み終わったイマルの頭を撫でながら眉を顰めた。

「で、うら若きお嬢様は一体何をこの数時間で見てきたのかしら?」

その質問に、イマルはえっと..と軽く頭を傾げて外で見たことを話し始める。

「外でお掃除してたら外から林檎落ちてきて、壁の上から声がして、上見たらピエロサンがいて、食べていいよって言われたから名前聞きました!」

あまりにも直接的で、情景の浮かばないイマルの説明にレイラに頭痛が走った。

今すぐイマルの肩を掴んで警戒心を持てと揺らしたくなる衝動を抑え、レイラはイマルを驚かせないようにゆっくりと肩に手を置く

「いい?イマルちゃん?知らない人に話しかけられたら、絶っっ対に走って逃げなさい?」

イマルの青い目を覗くと、全てを飲み込みそうなほど凪いでいるように感じて、レイラは遂にため息をついて椅子を2脚持ってくると、イマルに片方に座るようにさせた。


「イマルちゃん、アナタにはまだまだ常識を教えていかなくてはならないようね..」

「ご、ごめんなさい」

服の裾に皺を作るイマルの様子を見て、その力を込められた幼い両の手にレイラが覆うように手を重ねる

「アナタにはまず、この家に住むにあたり教えなくてはならないことを教えます」

「は、い!」

真面目にもイマルは背筋を伸ばし、顔も真面目っぽく眉を顰めた。


「500年ほど前まで、人間と食人鬼は生存を賭けて1000年以上の大きな戦をしていたの。」

その話は、この世界に生きる者なら誰もが御伽話として寝物語にされる話。

「ある1人の魔女が始めたこの戦は、人間たちが負けを宣言することで終わりを迎えた。」

でも、大事なのはここから先よ?とレイラは包んだままのイマルの手を指でコツコツ叩く。

「その時、人間と食人鬼は住む場所を完璧に分けるようになった。世界の7割は食人鬼の住む街、2割が人間の住む街..そして残った1割が」

ここまで一息に言ったレイラが下を向く。

「最大のスラム、残された人の街『エスティラハ』それがこの家のある街よ」

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さる鬼の抱き枕 ににまる @maruiyo

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