最終話

ワープが終わった。

 すると目の前には、宇宙が広がっていた。広くて何も無い。わたしは宙に浮いており、体と周囲の境目がすごく曖昧だった。体がつぶつぶになって、溶けて、無くなっちゃうような感じ……。


(わたしのイメージできる宇宙はこれ止まりってことなのかな?)

 目の前の幻覚で埋め尽くされた脳みその、ほんの少し残った一部分でそう思った。


 そういえば先月、和真とプラネタリウムを見た。寝転んで、手を繋いで。もしかして和真はわたしのことを好きなのだろうか? でもあの日の帰り電車の中で、『ところで結婚したらどこに住む?』と言われたときに感じたちょっとした違和感は、あれはなんだったのだろう。


 わたしは目を開けた。でも何度目を開けても、本当に開けることはできなかった。ここは宇宙だ。宇宙では目を開けることはできない。それなのに。

「今はどこにいるの?」 宇宙人の声がした。いつも声は、すぐそばで聞こえる。パチ、と目が開いた。


 いつのまにか両脚を宇宙人の肩にかけていた。体をくの字に折り曲げられたような形で深く貫かれている。恥骨の裏側と、子宮の手前あたりにあるザラザラに触れてる……。

(あ、これやばいっ……)


 次の瞬間、どこかから足を踏み外し、落ちるのかと思ったら違っていて急上昇を始めた。


(わ、ぶつかる!) 

 アパートの低い天井に激突したと思った瞬間、通り抜けていた。

 そのままどんどん上に行く。電信柱、高い木、すべてが自分よりも下になっていく。ビル、高層マンション、すべてを追い抜いてひたすらまっすぐ真上へ。恐ろしさのあまり声も出ない。東京タワーもスカイツリーも追い越した。


(また宇宙に行くの? えっと……ここは砧公園じゃなかったっけ。そんなことはどうでもいいか……)

 ぐるぐる飛んで、上も下もわからなくなった頃、水の中へ入った。


 水、と言ってもまるで片栗粉を溶かしたような、ちょっととろみのある水だった。ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ……。耳元で、土砂降りのときに泥の中を歩くような音がする。


 足がとても重い。踏み抜いて歩けば歩くほど、どんどん泥の中に沈んでいく。胸まで、首まで。もうダメ、苦しいよ……もうすぐ頭まで沈んでしまう、と思っているうちにとうとう沈んでしまった。


 気がついた。水音がするのは外側じゃない、内側だ。

 体の中で水音がする、わたしの皮袋は水でいっぱい、もう今にも溢れそう。


 「もうダメ」「何がダメなの」「出ちゃう、たぶんおしっこ」「それ、おしっこじゃないんじゃないかなあ。ま、どっちにしてもここで出しちゃっていいよ」「でも、汚しちゃう」「いいよ、汚れたって」 


 体の外も水、内側も水、それを皮一枚で隔てているだけだ。どこかに穴をあけることさえできれば、わたしは水に還ることができるのではないか。


「もっと。もっとして。お願い」

「じゃあ、上になってくれる?」 

 上になり跨ると、宇宙人は枝のついた丸太になった。わたしは丸太から飛び出た太い枝に向かって腰をゆっくりと落とし、上下に動かし始めた。太い木の枝なのにぜんぜん痛くない。っていうか気持ちいい。


「すごくいいよ。俺、もう持たないかも」 

 丸太がしゃべっている。丸太だからどうでもいいけれど。笑う金魚もいるんだからしゃべる丸太もあるのだろう。


 涙が出てきた。悲しいんじゃない。体の中の水分が出口を探して出てきてしまうのだ。どうやら体があちこちから破け始めたようだ。激しく痙攣し、体の奥に穴が開き水がどばどば流れ出ていく。内臓も脳みそもすべて皮袋から出て行った。

 宇宙人はわたしのどろどろの内臓に埋まりながら、荒い息を吐いていた。わたしは体を震わせながら、その様子をぼんやりと見ていた。


 意識が戻った時に最初に目に入ってきたのは真上に伸びていた木の枝だった。

 ちょうど夜が明けていく瞬間で、若葉の伸びてゆく先端に日が射し、緑地の木々の間を、光は抜け道を探すように広がっていった。


 わたしが横になっていたのはベンチだった。

 ゆっくりと体を起こすと、足元に置いてあったバッグを拾った。

 見覚えのある風景だった。

 目線の先にある建物は世田谷美術館だ。砧公園の中にいるということがそれでわかった。わたしの家はここから歩いて十五分だ。


 まだぼんやりしていた。

 昨夜のことが、どこまでが本当で、どこからが本当じゃないのか、よくわからなかった。

 立ち上がると、ベンチのすぐ近くを通っているサイクリングロードに出た。少し足がふらつく。


 夜が明けた瞬間だからまだ人の姿はほとんど見えないけれど、もう少し経てばジョギングの人たちがたくさん出てくるだろう。


 サイクリングロードの先の方に、人影が見えた。わたしが帰る方向とは逆のほうへゆっくりと歩き去っていく。近眼の目を細めてよく見てみた。青いTシャツの宇宙人だった。見ていたら振り向いて、一回だけ手を振ってくれた。わたしも小さく手を振った。


 宇宙人の話はそれっきりだ。名前を聞かなかったので宇宙人としか説明のしようがない。 

 しばらくして電話をかけてみたら「現在使われておりません」の音声が流れた。

 当たり前だけれど砧公園の中にアパートは建っていないし、三軒茶屋で行った店はどこにあるのかわからなかった。


 結局、あのあとすぐに会社をやめて、和真とも別れた。それほど揉めなかった。和真はわたしに執着する理由がない。そしてわたしは和真にふさわしくない。少なくとも結婚相手としては。もっと早くこうするべきだった。


 その後のことを少し。

 留学していたときの知り合いに紹介してもらい、私立の女子高校で英語の教員をすることになった。中程度の学力の、のんびりした高校で、わたしには向いていた。

 しばらくして、アルジェリア人の彼に女子校の教員になったことをメールで知らせたら、とても喜んでくれた。彼にはなんとなく心配されているような気がしていたので、安心してもらえて良かった。


 たまに、宇宙人は今頃何をしているのかと思うことがある。

 わたしが聞いた話はすべて嘘で、案外本当に宇宙人だったのかもしれない、と思う。

 宇宙人は宇宙に帰ったのだろうか。宇宙というのは空の上にあるのだろうか。 


 フラッシュバックは特にないけれど、 あれから少し変わったことと言えば、たまに空気の中の塵がすべて消えてなくなったかのように、世界がやたらときれいに見える時がある。そんなときは大抵、耳が聞こえなくなる。だからわたしは、ただその光景を見つめている。


 それと、金魚を見かけるとつい話しかけたくなったりする。もちろん、そんなことはしないけれど。






                            終わり


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スペースウォーク チアーヌ(乃村寧音) @tiarnu

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