第9話
佐藤 淳への呪いは、ゆっくりとではあったが、着実に悪化していた。
悪夢はほぼ毎晩見るようになっており、怪奇現象と呼べる幻覚や幻聴も、以前よりも遥かに多くなった。
それによって淳は徐々に衰弱し始めていた。
「いったい、何の呪いだっていうんだ……どこで貰った?」
洗面台の鏡の前で、顔を洗った淳は、そう呟いた。
この日も、悪夢によって起こされ、トイレついでに冷や汗でベタベタになった顔を洗ったところだった。
すでに『ただの悪夢』で済むレベルはとっくに通り越していて、日常生活にすら影響を及ぼしている。精神を削り、それが肉体を削るまで、もう猶予はなくなっている。
娘の太鳳越しに、あの少年、式守祝詞が判断した『現状』によると、これは『呪い』であり、呪いは明確な悪意と憎しみから成立する対象を狙った術式であるという。
そしてたいていの場合、この手の呪いは、最終的に命を奪うことが多い、と。
となれば、この呪いは、誰かが自分を憎み、呪っていて、いずれは殺そうとしているのだ。
淳は改めて、状況を整理する。
人間、四十年も生きれば誰かしらには恨まれることもある。だが、殺されるほどの恨みとなれば、話は別だ。
そこまでの恨みというものを、どうやれば買うのか淳には想像がつかない。
淳は善良、とまでは言わなくても、実に平均的で平凡な、どこにでもいる人間だ。犯罪に手を染めたことはないし、法律に触れることは一つもしていない。悪人にはなりようがないのだ。
そんな彼が、殺されるほど憎まれている事実が、彼自身には信じられなかった。
「どうしてこんな目に」
恐怖は、ゆっくりと滲むように生活に入り込み、淳の精神を蝕んで言っている。
まるで、天災か、事故にでも遭った感覚だが、その先にあるのが、『人の意思』であることが妙に理解できて、それが更に淳を不快にしていた。
おそらく、逆恨みの類に違いない。過剰に反応した誰かの過剰な怒り。それがこの呪いの正体だろうと、素人ながらに思っていた。そう考えると、尚更怒りがこみあげてくる。
順調な人生を、幸福な人生を、そんな誰かのどうでも良い憎しみが台無しにしようとしているのだ。
「クソッ!!」
洗面台を拳で叩きながら、淳はそう吐き出した。蛇口を見つめ、僅かに滴る水滴を目で追った。
『全部あなたが悪いのに、どうして被害者面なのかしら?』
背後から、声が聞こえる。
これまでにも、夢で聞いたことのある声。しかし、その言葉を聞くのは初めてだった。
淳は、すぐには顔を上げられなかった。圧倒的な気配を背中に感じる。
気配に敏感な方などではないが、すぐ近くで話されれば、流石に分かる。
この『呪い』が始まってから、ここまで現実的な気配を、淳は感じたことがない。
『来た』のだ。
本体とでも呼ぶべき何かが。
呪いの核心と言うべき正体が、今、自分の背後にいる。
淳は、プラスチックのコップを手にする。
正直な話、幽霊も霊障も呪いも、到底信じられたことではない。
自分がその渦中にいなければ、これらが超常的な現象であるなどとは思えなかっただろう。
娘の知人であるあの少年の言葉も、実のところは、あまり信じていない。そもそもが幽霊などというもの信じていないからである。
「……いい加減にしろよ。何が幽霊だ……何が呪いだ……ふざけやがってっ!」
淳は歯を食いしばって覚悟を決める。
勢いよく振り返り、その姿を視認する。
夢や幻覚でなんとなく見たことのある女性。だがそれは、淳の人生で知り合った覚えのない人物だった。
「誰なんだよ、お前は!! 」
淳は殆ど叫ぶように言いながら、コップを投げつけた。
プラスチックのコップは、思いの外勢いに乗って女性の頭、丁度額のあたりに直撃する。
『コンッ』という音が響き、直後に聞きなれた声で小さな悲鳴が聞こえた。
「きゃっ! 痛っ……なにするの、お父さん……」
「え?」
その声にハッとして、改めて目を凝らすと、さっきまで見知らぬ女だと思っていた人物は、自分の娘の太鳳であった。
「太鳳……すまん、悪かった……お前が……全く別の女に見えて……」
淳は駆け寄り、太鳳が抑えている額の様子を見る。
「傷には、なっていないか? 本当に悪かった……」
「大丈夫。でも、お父さん、本当にマズいんじゃないの? 日に日に幻覚は酷くなっているし、私まで見間違えるなんて……」
「そ、そうだな。かなり良くない状態かもしれない」
そうは言っても、何も打つ手がないのが現状だった。
精神科へはかなり序盤に行っていた。それも一つではない。セカンドオピニオン、サードオピニオンまでおこなって、出された薬も数種類飲んでみたが、まるで効果はなかった。
つまりは、精神疾患の類ではなく(仮にそうだとしても現代の医者にどうこうできるものではなく)精神医学、心理学の領域でもどうにもならないことであるのは実証済みであった。
だからこそ『霊能力者』などという胡散臭い連中にすら相談し、それもめぼしい効果がなく、挙句に娘の友達のさらに知人という、殆ど無関係の高校生にすら藁にもすがる思いで頼ったのだ。
淳にも太鳳にも、霊感と呼べるものは殆どない。人間だれしもに備わっている『第六感』と呼べる部分は多少なりともあるとは思うが、それ以上では決してない。
だが、そんな淳にも、この超常現象ははっきりと映像が見え、声が聞こえる。
『呪い』と呼ばれる側から、実に一方的にではあるが、干渉を受けている。
悪夢から幻覚、幻聴に続き、実際に手足を掴まれる感覚。躓いて転ぶことも一度や二度ではない。極めつけは、正体の分からない血痕までついていることもある。
それが本当に血液なのか、精密に調べた訳ではないものの、乾いた後の黒ずみや、消毒液をかけた時の反応を見るに、おそらく何かの血液であることは間違いなさそうであった。
すでに実害とも言えるべきものまで現れているこの現象に、淳もその家族も蝕まれ始めているのだ。
「……今ね、色々調べてくれるらしいから、きっと、もう少しで解決してくれるはず」
太鳳は、父親に向かって、そう言った。
この『呪い』にかかってから、淳が衰弱していっているのは明らかだ。
精神的にも追い詰められ始めているのを、太鳳は感じていた。
「逆恨み、なんだよね?」
太鳳はそう、淳に尋ねる。
杏璃越しに、呪いの詳細について聞いた太鳳と淳だったが、それは単純に解釈すると、『殺したいほど恨んでいる人間が佐藤淳にむかって災いを仕向けている』ということになる。
理由はどうあれ、深く深く憎まれているのは事実だ。
自分の父が――家族が、誰かから殺したいほど憎まれている、その現実は太鳳に少なからずショックを与えていた。
「おそらく、そうだと思う。仕事をしていれば、恨まれることだってある。それが行違って、誤解を生んで、募って大きくなったんだろう」
十年前ほど前から、仕事では常に中間管理職的な立場にいた淳は、どうしても部下にフィードバックをすることが多かった。
その言い方や態度を悪く受け取られれば、憎まれることもある。
その中の一つが、偶然と重なって強い恨みになった、それが淳に唯一思い当たる節であった。
「困るよね。そんな風に一方的に恨んで、こんな呪いをかけるなんて」
そう言うと太鳳は、なんとなく自分の手首に目をやった。
「えっ、きゃあっ!」
直後に、太鳳は悲鳴を上げた。
何気なく見た右の手首に、細く赤い痣のようなものがついていた。それは角度的には、細い痣が数本あるだけだったが、見た瞬間に、手形であることが認識できた。
その不気味さから、思わず声を上げたのだ。
太鳳はとっさに手首ごとぶんぶんと振り、改めて見てみると、そこにはすでに手形はなかった。
「太鳳、どうした?」
「手形がっ、私の手首にっ」
「どれ?」
「もうなくなった……でも、本当にあったんだよ」
娘の言うことを疑う余地もないが、すでに何が現実で何が幻覚なのかも、淳にとっては曖昧になりつつあった。
しかし、自分だけならまだしも、娘にまで影響が出たとなると、いよいよ危険だ。この『呪い』とやらが、娘の太鳳にまで伝染する類のものだったら。
そう考えただけで淳は背筋が凍る思いだった。
それと同時に、怒りがこみあげてくる。
娘にまで被害が及ぶなんて到底、容認できることではない。
淳にも人並み以上に家族を想う気持ちはある。
自分が憔悴することももちろん勘弁してもらいたいものだが、それよりも妻や娘に被害が及ぶことは我慢ならないのだ。
だが、どんなに激したとしても、淳にも太鳳には、なす術はない。
知人に相談し、専門家に相談し、もっとも信頼できる可能性のある人間にまでたどり着き、今まさに何とかしてもらっている最中なのだ。むしろ出来ることは全てやったと言っても過言ではない。
淳は太鳳の肩に手を置き、安心させるように微笑んだ。
高校生にもなった娘に、こうして触れることは普段なら嫌がられることの方が多いことは重々承知だが、それでも不安にさいなまれている娘に父親ができることは、このくらいしかない。
「式守君が言っていたな。呪いとは精神から体へと蝕んでいくと。呪いをどうこうは、彼らに任せるしかないから、せめて我々は、気持ちを強く持っていよう」
父の言葉に、太鳳は静かに頷いた。
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