2月22日(水)_幸せの届け主

 朝の教室がざわついた。

 生徒たちの視線は、たったいま開けられたドアに釘付けになっている。

 桜間くるるが立っていた。

 左手に包帯を巻いて、立っていた。


「おは、よー……」

 

 クラスメイト達へと気の抜けた挨拶をしたくるるは、心ここにあらずといった表情で、ぼーっとした足取りで、自分の席へと向かう。

 誰もが声をかけあぐねる中、一人の男子──解人がくるるの側にやってきた。


「桜間さん、大丈夫? カバン持とうか」


 心配を込めて柔らかい口調で話しかける解人。

 くるるがゆっくりと解人の方を向く。遠くを見る目つきだった。やがて声をかけたのが、目の前にいるのが解人であると気付いたくるるは、だんだんとピントを合わせていく。


「…………っちゃう」

「え?」


 聞き取れなかった解人は身を乗り出して彼女に顔を近づける。すると。

 くるるのつぶらな瞳が涙で潤んだ。


「……なっちゃう」

「なっちゃう? なにが、どうなっちゃうの?」

「カイトくんも不幸になっちゃうんだ~~~~~~~!」


 そう言うとくるるは、しなしなとその場に座りこんでしまった。



 ◆ ◇ ◆



 落ち着きを取り戻したくるるは改めて言った。


「今日は私に近づかない方がいいんだよ。不吉パワー全開だよ」


 言葉通りに、くるるはいつもより解人から距離を取っている。

 解人がすっと近づいてみると、くるるはすっと離れた。しかし、解人が離れてみると距離を詰めてきた。近づかない方がいいって言うわりに離れすぎると近づいてくるんだな、と解人は笑ってしまった。

 楽しくなってきた解人は、側に寄ったり離れたりを繰り返してみる。二人の剣豪が向かいあって間合いを計る光景が再現された。


「な、なにかなカイトくん?」


 くるるは恥ずかしさをほっぺたに浮かべながら、両腕をクロスさせて防御のポーズをとる。


「ごめん、桜間さんの反応がいいから、つい」

「あーっ、私で遊んでたってこと!? ひどいひどい」

「誤解される言い方だ……」


 不服そうなくるるが詰め寄ると、今度は解人がぐいっと身を引く。先ほどまでとは対照的な反応だった。

 いざ近づかれると恥ずかしくなった解人は、元の話題に流れを戻した。


「それで、不吉パワーってなんのこと?」


 くるるは思い出したように、解人から距離を取る。


「触れると不幸になっちゃうパワーだよ。たぶん」

「そのケガも?」


 解人がくるるの左手の包帯を指さす。


「うん。いたかった」

「そっか。今は平気?」

「へいき」


 くるるがコクリと頷く。登校中に走ってたら怪我をしてしまったのだとくるるは語った。


「走った? 急ぐ用事でもあったの?」

「違うの。黒いネコちゃんに逃げられちゃって。それで追いかけてたら」

「ああ、なるほど」


 解人は二重の意味で納得していた。


「つまりあれだ。黒猫を追いかけていたら転んで怪我をした。黒猫と言えば横切ると不吉だと言われている。だから、自分は不幸になったと」

「分かったら今日の私には近づいちゃダメだよ」

「近づくと俺も不幸になるの?」

「この不吉さは……伝染するんだよ!」


 伝染とは? と解人が首を傾げると、くるるは語り始めた。

 曰く、黒猫に逃げられて怪我をしたあと、大人しく学校に向かったものの、通学路で不幸の連鎖に遭遇したらしい。

 カラスにフンを落とされて驚いたサラリーマン。その声に驚いてスマホを落としたおばあちゃん。を、助けようとしてかがんだらスニーカーのひもが千切れた男子生徒。

 誰も幸せにならない光景に心をすり減らしたくるるは、呆然としたまま保健室へ向かい、亡霊のような足取りで教室のドアを開けたというわけだ。


「それはそれは……えらい目に遭ったね」

「うん。だから、カイトくんの顔見たら、なんか、泣けてきちゃって」

「えー……と。俺も不幸になると思ったから?」

「それもあるけどさ、カイトくんの声って湯たんぽみたいだからさ」

「寒い冬に大活躍しちゃうな。安心したってこと?」

「あ……う、うん。たぶん、そう」


 くるるが俯いて唇を尖らせながら早口で言う。自分が言っていることが恥ずかしいと気付いたというリアクションだった。

 解人はそんな様子に気付くそぶりを見せず、けろっとした顔で言う。


「そっか。まあ平気だよ。俺はあんまり迷信とか気にしてないし」

「黒猫が横切っても?」

「まあ、そういうこともあるだろうし」

「逃げられちゃっても? 見失っちゃっても?」

「まあ、桜間さんが気になるならまた追いかければいいし。どうする? 放課後行く?」

「……!」


 くるるが顔を上げる。両目がぱっちりと見開かれてキラキラと輝いていた。



 ◆ ◇ ◆



 放課後。黒猫はすぐに見つかった。

 朝にくるるが探していた路地の近くの公園で、他の猫と一緒にベンチにたむろしていたのだ。

 くるるは猫の群れに混じっていった。人間が近づくと逃げるんじゃ、と解人は心配したが、予想に反して猫たちはくるるを取り囲んだ。

 猫の集会に受け入れられたくるるがベンチに座ると、黒猫は膝の上に乗ってきた。周りの白、三毛、トラ茶などなどの温かい毛玉たちは、くるるの匂いをスンスンと嗅いでいる。


「おらおらおら~かわいいねえおまえさんは~~~~」


 解人はなんとなく自分が近づいてはいけないと判断し、一歩引いていた。混ざってしまうと調和が崩れるような気がしたのだ。


「おまえさんは世界一かわいい不吉さんかもねえ。おりゃおりゃ」


 くるるが猫のあごの裏をくすぐるように掻く。

 満足げに目を瞑ってリラックスする黒猫。しかし、そのうち急に目をパチッと開くとくるるの膝から降りていった。猫は気まぐれ。とてとてと歩いていく。


「ああ~……行かないでえ~……」


 今朝と同じだ、と思ったくるるは眉根を寄せる。しょんぼりという言葉をそのまま絵にしたような顔だ。

 やっぱり逃げられちゃう運命なのかなと考え、くるるはハッとした。

 解人に言われたことを思い出したのだ。

 

『桜間さんが気になるならまた追いかければいい』


 くるるは、よし、と小さく呟くと黒猫を追いかける。驚かせないようにしゃがんで、ゆっくりゆっくり追いかけていく。小さな背中にくるるは手を伸ばした。

 黒猫は二つの柱の間を通り抜け──違う。くるるの手が止まる。

 顔を上げると解人がいた。

 一瞬柱に思えたものは解人の制服のスラックスだった。

 ぱちり、と二人の目が合う。


「あー……俺は動かないから、どうぞ、ごゆっくり」

「う、うん。ありがと」

 

 くるるは黒猫へと手を伸ばす。解人の足元、ふくらはぎとふくらはぎの隙間にくるるの手が差し込まれる。向こう側にいた黒猫はもう逃げなかった。その温かな背中にくるるは話しかける。


「おまえさんを追いかけてたら幸せに出会えちゃったねえ。不吉さんなんて、もう呼べないねえ」


 解人の存在を身近に感じながらくるるは呟いた。

 当の解人は、その間、息を潜めてオブジェであることに努めていた。


「………………」


 解人は、猫と戯れるくるるのつむじを見つめる。いつまでも続いてくれという思いと、早く終わってくれという思いとが心の中で取っ組み合いをする。


 傾いた西日は、そんな二人を温かく包み込んでいた。

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