第89話 癒しの時間





 苦しそうに息をしている子供を前にして、胸が痛くなった。でも表情には出さず、親に尋ねる。俺はあくまでも冷静でいなくては。冷たく聞こえないよう、出来るだけ丁寧にと意識する。


「この子の名前を教えてもらえませんか?」


「な、名前? そんなことよりも早くっ」


「大事なことなので、どうか教えてください」


 早く助けてほしい気持ちは分かる。時間稼ぎしているのではないかと、疑いそうになる気持ちも分かる。でも必要なことだった。


 男性は納得のいかない顔をしながらも、教えないと俺が動かないと分かったのか口を開く。


「なまえは……えっと……その。ちょっと、まってください。……なんでだ、わかっている。わかっているのに」


 名前が出てこない。それに焦っているのは本人だった。子供が落ちないように抱え直したが、その腕は、体は震えていた。


「あ、あたまがこんらんして。すぐにでてこないだけで、わかっているんです。ほんとうですから。このこは、わたしのこで……」


「落ち着いてください。あなたを責めているわけではありません」


 さらにパニックになってしまったのを、背中をさすってなだめる。名前をすぐに言えなかったとしても、責める気はなかった。

 そうなるのも当然だから。


「……あなたの症状は、いつから出ているのですか?」


 俺の見立てからすると、彼の方が症状は深刻だった。熱にうかされ、湿疹は身体中に出ており、呼吸も荒い。目の焦点も定まっていなかった。


 ここに来るのはおろか、立つこともままならないはずだ。

 それなのに、子供を助けたいという、その気力だけでやってきた。腕の中にいる大事な存在を、決して離そうとはしなかった。


「わ、わたしは……わたしは、どうでもいいですっ。こどもをっ、こどもをどうか……たすけてくださいっ」


 意識がもうろうとしている中で、それでも子供を優先する。自分の命なんて二の次だった。

 これが、無償の愛だ。我が子を愛する親なのだ。


「必ず、二人を助けます」


 俺は断言する。話ばかりいて、いつまでも待たせている場合では無い。早く楽にしてあげよう。


 用意されていた瓶を手に取り、スポイトを使って一滴ずつ、それぞれの口に入れた。何度も繰り返すうちに、手際は格段に良くなっている。

 そして、指で額に触れた。


 触れたまま、聞こえないぐらい微かな声量で、言葉を紡ぐ。きっと何かの呪文だと思っているはずだ。


 五分ほど続けて、ゆっくりと指を離した。


「……しばらく休めば、もう大丈夫です。体が楽になったでしょう?」


「ほ、本当に、本当に大丈夫なんですか?」


「はい」


 呆気なく終わってしまったから、治ったのかどうか半信半疑のようだった。

 これまで治した大多数の人が同じ反応をしたから、返答に困らなくなった。


「神殿に部屋を用意してありますので、そこで一日休めば明日には元気になっているでしょう」


 もう何人もの人をこうして治してきたので、自信を持って答えられた。


「あ、ありがとう……ございます。ありがとうございます。このご恩は、一生忘れません」


 とうとう耐えきれずに、その目から涙がこぼれ落ちた。決壊したダムは止まらない。でも泣きすぎたら脱水症状を引き起こしそうなので、治る前に体力は使わせられないと、その手を包み込む。


「喜ぶのは、お子様が元気になってからにしましょう。起きた時に真っ赤な目で出迎えたら、驚いてしまいますよ」


「そう、ですね。……本当にありがとうございます」


「ゆっくり休んで元気になってください。よく、頑張りましたね」


 軽く力を入れて、祈りを捧げる。

 そうすれば、まだ涙まじりだったが感謝の言葉と共に去っていった。



「……ふぅ」


 扉が閉まると、思わず息を吐いた。

 治ると分かってはいても、気が抜けない。


「ここまで時間をかけると、その疲れが溜まってしまいますよ」


 傍で控えている剣持が、俺を心配して言ってくれる。

 確かに、やらなければいけない作業だけなら、数秒ほどしかかからない。それ以外が、多く時間をとっている。早めれば、それだけ時間を短縮できるが。


「……流れ作業にはしたくないんだ」


 ここに来る人達はたくさん苦しんで、死の絶望すら感じて、そんな中わずかな希望を頼りにやってくる。

 死にたくない、死なせたくない。でも手遅れかもしれない。恐怖を消し去ることが出来ず、体も心も疲弊している。


 いくら治ったとしても、流れ作業のように治療をしたら、心は壊れたままな気がする。

 治るなら構わないという人もいるだろうから、結局は俺の自己満足に過ぎないのだが。


「ここに来たら、安心してほしい。少しでも辛かった記憶から解放されて、早くいつもの生活に戻れるようになってほしいんだ」


「……聖様は、素晴らしい方ですね。俺はあなたに最後まで付き合います」


「ありがとう。そう言ってくれると、心強い……次の人を呼ぼうか」


「はい」


 まだまだ、助けを求めている人はたくさんいる。その人達を全員救うまでは、俺は安心できない。

 こんな事態を引き起こした相手に、強い怒りを感じながら、手のひらに爪が食い込むぐらい握りしめた。







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