第22話 ミルク飴のキス

 頭の中で思い起こされるのは、ヒートアイランド現象を現す赤い矢印だらけの図解だ。

 アスファルトの照り返しである放射熱とビルからの輻射熱ふくしゃねつ、あとはなんだったっけ、エアコンの室外機や自動車から放出される熱、あれはなんて名前だっけ、とにかくそういうのが全部赤い色の矢印になって、都市をビニールハウスみたいに蒸し暑くしているそのさなかにあたしとアッキちゃんは愚かにも歩き回っている。

(放射熱・輻射熱は、テストに出そうだから覚えていたのだった。漢字までね)

 

 愚か仲間についアッキちゃんも加えてしまったが、アッキちゃんは涼しい顔だ。

 あたしだけが茹で上がりそうになりながら朦朧もうろうとしている。


 日射しが痛いというのは、痛さの原因が日射しであるということなんですよ。

 などということしか考えられなくなったあたりで、さっと頭にさす陰がある。

 アッキちゃんが本気度1000%のゴツい銀色日傘を差しかけてくれたのだ。


「これで体感気温が2度から3度くらい違うらしいよ」

 説明書でも読むような口調でアッキちゃんが教えてくれた。


「あたしは気温計じゃないからわからないけど、そのくらいは涼しくなってるかもね」

 だるだるのままあたしが答える。


 その後は、茹だった空気のなかを泳ぐみたいにして歩く。もしくは、青鬼オンラインで床が毒になっていくステージを歩くみたいな感じ。

 ところどころ毒に侵されていない床があるけど、コンビニ前を通った時に中から吹き付けてくる冷風はさながらあれと同じ。

 もちろん、わざと自動ドアが開くところを踏みながら歩いている。

 ボッチ女子高生は小学生に混ざって青鬼オンラインのランカーなのだ。いいでしょ別に。

 

「どっか入らないと本気で脳がゆで卵になる」

「それはどういう意味?」

「タンパク質変性が起こってもとに戻らなくなるという意味です。ネットで見た」

「それは大変だね」


 まったく大変さが分かっていない口調でアッキちゃんが答える。


「これから言うこと、脳のタンパク質が茹だりかけてる人間の言うことだと思って聞いてくれる?」


 って言いながらも分け目のところがヒリヒリ痛んできて集中できない。

 これは日焼けしているのかな。痒くなるしフケっぽくなったりしたら嫌だなあ。

 アッキちゃんはフケなんかと無縁だろうから、幻滅されちゃったりして……あ、でも大潮? の日にはこういう新陳代謝が一気に襲ってきたりするのかな。それはきっと、想像できないくらいイヤ〜なものだろうなあ。


「舞火のことを黙っていたのはごめん。言っても困らせるだけだと思ってたから」

「それはもう聞いた。一応そのまま受け取っとく」

「ありがとう。それで、アッキちゃんは、部屋の場所は舞火には伝えてなかったってことでいいよね?」

「そうだよ、やたら来たがってたけど部屋には呼ばないって断った。そしたら場所だけでも教えて! って必死で言われてさ、キモいから絶対教えないでおこうと思った」


 なるほど、舞火はずっとアッキちゃんの部屋を探りたくてたまらなかったわけだ。


「赤い蝶を見たのは、あの事件のときが初めて?」

「そうだよ。舞火の背後からどんどん生まれた蝶を見たとき、あたしはもしかして式神じゃないかって思った。それもあって怖かったな、あれは」


『式神』という言葉が出たことで、あたし達の間に緊張みたいなものが走った。

 

 舞火はきっと、アッキちゃんと付き合っていたころには式神は遣えなかったんだろう。蝶を遣えば、こっそり部屋を探るくらいわけないだろうし。それができなかったから、式神を遣うようになった?

 でもそのときにはもう舞火とアッキちゃんは別れていて、あたしがアッキちゃんの部屋に通っていた。浮かれて空の写真なんかを上げていた。

 それをわざわざネットで探るってことは、まだ舞火はアッキちゃんの部屋を突き止められていない。


「舞火は、あの蝶をあたしに尾行させようともしてた。アッキちゃんの部屋を探るためだって今なら分かる。部屋を突き止めるのがセーマン派の目的で、あと舞火は……」

「それから?」

「舞火はいつからセーマン派だったのかな。舞火と付き合うとき、アッキちゃん、またフラれたばかりだったりしなかった?」

「え、そうだけど。なんで分かるの?」

 

 本当に分からないって顔で、アッキちゃんが銀色の傘を揺らした。

 ずっとあたしに差しかけてくれているから、腕が疲れたのかもしれない。


「それ、持つよ」と言おうとした。

 頭が後ろに引っ張られたみたいになった。視界には白っぽい光が明滅めいめつしていた。

 遠くでアッキちゃんが、「えっ?」って、状況にふさわしくない普通っぽい声をあげるのが聞こえて、あたしは熱々の鉄板みたいな道路に倒れこんだ。

 

 


 目を覚ますと、あたしは樟脳と線香の匂いのなかにいた。

 天井は、修学旅行で行った旅館みたいな木製の格子柄だ。

 

 天井からぶら下がった照明の傘から舞い落ちるホコリが、西陽にあたって白く光る。

 窓には模様の入ったガラスがはめられていて、ザ・昭和だ。

 あたしの寝ている布団は、古臭いし平べったいけれど、不潔ではなかった。まあ、ちょっと加齢臭はするけど。

 おばあちゃんの匂いみたいな、安心する匂いと言えなくもない。

 なんだか肩のあたりが寒い、と思って見てみると、布団に広がる髪の毛とシャツに水が染みている。

 どうやら額に乗せられたタオルから、水滴がしたたり落ちているらしい。ちゃんと絞りなよ……って誰に言っているんだっけ。

 

 ふ、と顔に陰が差した。

 

「そうか、アッキちゃんだ」


 日射しをさえぎるみたいに、あたしの顔をのぞき込んでいるのはアッキちゃん。

 ふわふわの白い髪は、いつか言ったみたいに、夏の日射しを受けて羽化したての蝶の薄羽みたいに光っている。


「アッキちゃん、タオル、絞れてないね」

「ほんとだね、布団に染みたら、リリィのババアに怒られる」

「ここ、ママの部屋なの? あたしリリィ出禁なのに、いいの?」


 アッキちゃんは眉を下げて困ったみたいな顔をして笑った。


「ババアも反省してた。もえはとは違うんだから、真夏の露天に放り出されたらゆで卵になるよねって。それに、ここはババアの部屋であってリリィではない」


「そう……あとでお礼言わないと」

「いいよ、だって出禁は解除されてないし。熱射病患者を放置するのは人道にもとるってだけなんだから。あ、でも、濡れタオル作るのに畳もシンクもびしゃびしゃにしちゃったから、それは怒られるかな〜? ま、あたしが今度怒られておくよ」


 ふふ、と笑うアッキちゃんの白い髪の毛が、あたしの唇をかすめる。

 まぶたにもふわふわと触れる。

 くすぐったいな、と思っていると、アッキちゃんの唇があたしの唇に押し当てられる。

 ミルク飴みたいな味がした。きっとリリィで飲んでいたホットミルクの味なんだろう。

 ホットミルクを飲んで、ミルク飴のキスを生成できるなんて、アッキちゃんは錬金術士なのかもしれない、と思った。


「それで、タンパク質変性は大丈夫そうなの?」

「アッキちゃんの唇が甘いなって思えるくらいには大丈夫」

 

 そう答えたら、バーカ、ってアッキちゃんが笑ってもう一度キスした。

 甘いキスは少し深くなって、ああ、こんなに口内が熱いのに、生きてないなんてありえないって思う。

 深いキスの間にもれる鼻息はあたしのものだけで、それは汚いほうの生の副産物って感じで恥ずかしい。


「それなら、倒れるまえに言いたかったこと、いま話せるかな?」


 唇が離れてすぐ、真面目な顔になったアッキちゃんが言った。

 あたしも真面目な顔を作って、頷く。

 びしょびしょのタオルが額から落ちた。

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