逃避行
「え?」
「あ──」
僕と、振り向いた君で、視線が交錯する。君のまぶたがパチリと下りて、上がって、一つ
一歩、二歩と彼女に近づいて階段の下を覗いてみると、やはり人が血を流して倒れている。少し後ずさりしようとして、やめた。ビニール袋からアイスを二本取り出して、そのうち一つを君に差し出す。
「ね、アイス食べない?」
口を突いて飛び出したその言葉は、まだ自分でも真意を測りかねていた。ただうるさかった
❅
彼女はクラスの中でも浮いていた。みてくれも性格も良くて、孤立したがっていて、僕も詳しくは分からないけど、いじめられがちな人だった。
階段を駆け下りて人影を確認し、いじめっ子グループの一人だと気付いた僕は、諸々の事情をその瞬間に察したのだ。
「詳しく聞かないんだ」
「聞いて欲しかった?」
「いや」
「じゃあ、聞かない」
俯いた彼女は、それでもアイスを食べてくれた。一口一口がとても小さいが、それで構わないと思った。彼女と長く話せるから。
それから先は、少しとりとめもない話をした。嫌いな先生のことや、もうすぐやってくる面倒な期末テストのこと。家族の愚痴なんか話したっけ。彼女が自分から話題を出すことはないから、無意識に、羊を追い立てる牧羊犬みたいに喋り続けた。
「これさ、スッキリした?」
そんな中、言葉を不意にそう挟んで。少しづつ会話に乗ってくれるようになった彼女は、やはり目を伏せた。今まで彼女の顔ばかり見つめていたから忘れかけたが、そういえば、階段の先には死人がいる。
「…………押した時は、ちょっとだけ」
「やっぱそうなんだ」
「うん、まあ、これは……ざまあないね」と付け足して、階段下の人物を見下す。ただ、感謝しているのも事実だった。
「流石にバレちゃうかな」
彼女はそんなことを言った。開き直っている風だった。半ばまで食べかけた僕のアイスが溶けて、持ち手を伝って垂れてくる。
「どうする、この後。バレちゃったら」
語尾がひどくすぼんでいると自覚した。怖いものから逃げて逃げて、いつか逃げ切れずに押し潰される。それが彼女だった。今までは。視線を辿り、彼女は俯いていたのではなく、階段下を見つめていることにようやく気付く。
「こうなったら、もう」
……、でも、違う選択肢が与えられたら?
逃げる以外の逃げ方があるとしたら? 垂れたアイスが指先まで届いたが、そんなことは全くもってどうでもよかった。
「ごめんちょっと待って」
彼女が次の言葉に踏み切るより先に、アイスを投げ捨てて踏み込む。一段飛ばしで階段を駆け下りると、そのままの勢いを足に乗せ、ピクリとも動かない死体の頭を踏み潰す。蹴って、蹴って、人相が分からないくらい足蹴にして、その後は適当な茂みに放り投げた。
階段のてっぺんを見上げると彼女は本当に当惑しているようで、ついさっきの不穏な雰囲気も、不穏な気配もなりを潜めている。
「僕も、人殺しになっちゃったな」
今度は一段ずつ、自分の行いを噛み締めて、咀嚼して、消化できるように階段を上りながら。
夜風とアイスで喉はキンと冷えていた。
「このままやけくそでムカつく奴を殺しにいっちゃったり、最期ってことで派手に飛び降りたりしてもいいけど、貴重な時間をそんなことで虚しく使いたくないからさ」
彼女の四段手前で手を差し出す。どん底へ、その人にとっての堕落へ誘う悪魔みたいに、じゃない。自分にとって都合よく落下軌道を修正をした分、悪魔よりも悪魔なのかもしれない。
「このままどこか、遠くへ行こう。なんか、とにかく、めちゃくちゃに逃げて、色んな景色を見て、色んなご飯を食べて──それから、死のう」
この感情に名前があるとすれば、それはきっとろくでもないんだろう。でも僕が救われて、君を救えるなら、別にそれでいいじゃないかって思う。
君が手を握ってくれた時、僕は今更ながら、君に話しかけた真意を自覚できた気がした。
「──じゃ、出発しよう。一緒に」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます