キャスラエルと星が残した私達
鴻鵠のしな
第1話 あなたの子、わたしの父
遠い昔の記憶、父が私に言い聞かせていた事がある。古くからのおとぎ話だと言って色々な話をしていた。細かい内容はもう覚えていないけれど、どんな話をする時も、父は最初にこう言うのだ。
『大丈夫、きっと幸福な話でおわるから』
そう語る父の瞳は慈愛に溢れていたと思う。父の腕は武骨でたくましく、傷だらけのその手のひらは私の何倍も大きかったが、私の手を握り抱きしめる時は厳つさを微塵も感じさせないほどに優しかった。父の胸に抱き寄せられ、その心地よい鼓動と温もりを感じながら眠りにつくのが一日の中で最も幸福を感じる瞬間だった。
『お前の顔を見たときのことを覚えている。あれはまるで、曇天の間から一筋の光が差し込んだようだったんだ』
物心ついた時から母は居なかった。町外れの林にぽつんと建てられた小屋の中で父と私は二人で住んでいた。父は私に、一人でここから離れないようにと言い聞かせていた。林から離れることができるのは父と共に町に出る時だけ。風に吹かれ花々へと導かれていく蝶、空を泳ぐ鳥たちの楽しそうな囀り、季節と共に星々を代わる代わる映し出す天蓋。私の世界はそれらで完結していた。箱庭の中の子供であった私は、それ以上の景色を望んではいなかった。
『全てを失った瞬間、お前が俺の前に現れたんだ』
何も知らない無垢な子供は、父から向けられる感情を疑うことなく、ただ微笑んでみせた。たった一人の最愛の人を喜ばせる手段をこれ以外に知らなかった。
『お前は俺の全てだ』
祈りのように、あるいは懺悔のように言う。草臥れた布団の中で父に頭を撫でられながら眠る時、焚き火の爆ぜる音に混じって聞こえる声。毎晩、私が眠りに落ちる前に彼はそう囁く。
『お前は俺の全てだ。もう誰にも奪わせはしない』
父はきっと、秘密を抱えていた。当時の私は深く考えたことは無かったが、彼が私に何かを隠すように振る舞い、暴かれることを酷く恐れていたように思う。幼稚で単純な子供にとって、父親の秘め事など些細な問題に過ぎなかった。私が笑顔を絶やさず、健やかでいることが彼の願いであると信じていた。
『お前は俺の全てだ。もう誰にも奪わせはしない。俺の中でずっと笑っていてくれ』
気づけば父は老いていた。灰を被ったような白髪の下には皺が深く刻まれた中年の顔があった。私が歳をとるよりも早く老いているように思えた。毎日聞く声も嗄れて、渇いた音が喉から漏れているようだった。
『お前は俺の全てだ。もう誰にも奪わせはしない。俺の中でずっと笑っていてくれ。お前を脅かすものはすべて俺が退けるから』
最後にその言葉を聞いたのは、手足が消えてしまったと感じるほど冷え込んだ冬の日の前日だった。雪が一面に降り積もり、美しい銀色の世界が大地を支配していた。見送る私に父は手を振って、いつものように町に買い物に行くと言って出かけた。その日、父は帰ってはこなかった。父が居ない夜は初めてだった。私は初めて独りで眠りについた。内容はもう覚えてはいないが、酷い悪夢を見た記憶がある。
三日目の孤独の朝、いつもとは違う空気に、肺に引っかかるような息苦しさを覚えた。決して冬に訪れることの無い奇妙な熱気だった。
父がいなくなった父と私の住処を、強い風が四方から叩きつけていた。
小屋の扉を開けると、入り込んだ空気が耳を掠めていくのを感じた。風に乾かされた眼球の上を瞼が何回か往復し、ようやく目前の光景を網膜に収めることができた。例年通り、降り積った雪が大地を覆っている。しかしそれは見慣れた景色ではなかった。なぜなら、雪が反射しているのは眩いほどの白銀ではなく、錆び付いたような掠れた赤を写し出していたのだから。
なぜ、と思い空を見上げる。天蓋を覆う空の色、は晴天の青でも、曇天の鈍色でもなく、血肉のような赤色だった。兎の腸を裂いた時に似たような色をしていたことを思い出し、引き攣った呼吸が漏れた。黒い稲光が空を裂き、雷鳴が轟く。運ばれてくる生暖かい風には、薪を焼いたような香ばしい匂いと、微かに不愉快な生臭い空気が含まれていた。この異常は私の居る場所林で起こっていることではなかった。父の向かった町の方からそれは発していた。それも人目でわかるほどに。
町の方向から黒煙が上がっているのが見えた。天高く、赤い空に向かって黒い塔が建っているようだった。
私は初めて父の言いつけを破り、林を抜け出した。裸足のまま駆けた。振り積もった雪に体温を奪われるのも構わず、町の方向へと走り続けた。進む度に空気に生暖かさが混じり、何かが焦げた臭いが鼻を突く。
通り道の田畑には雪に灰が混じって、曇ったように赤い空の光を反射していた。風車は折れ曲がり、家畜飼育場とみられる場所にはいくつか肉の塊が転がっていた。
ようやく町の城門に辿り着く。父に連れられた時に見た町は、悠々とそびえ立つ石造りの城壁、丁寧に舗装された石タイルに美しい造形の建物が建てられ、行き交う人々で彩られていた風景が印象に残っていた。しかしこの時の私の目に入った町の姿は、その風景が夢であったかのように原型を留めていなかった。外敵から町を守るはずの城壁は雪崩が起きたように崩れ、大きく穴を開け、中の景観を晒している。その町並みもまた火の手を挙げ、家々は形を失い、炭化した骨組みが残るだけだった。綺麗に舗装されていたはずのタイルの道には大きく亀裂が走り、あちらこちらに茶ばんだ血痕の跡を残し、人の形をした炭の塊が落ちていた。
私は父がまだそうなっていないと信じて、壊滅し暖炉の中にいるかのような熱気に包まれた町の中、夜が二度迎えるまで父を探し続けた。しかし父の姿はおろか、私以外に生きている人間を見つけることは出来なかった。
喉の乾きと空腹で頭が朦朧し、身体は限界を迎えていた。赤かった空は色を失い、藍色の世界に星を映し出している。町を覆っていた熱気は消え失せ、冬の無慈悲な冷気が灰塵となった世界を支配していた。
私は、寒さによって感覚の消えかけた四肢を懸命に動かし地面を這いつくばっていた。目前には神々を信仰する者の為の聖堂の門があった。その姿も、神々の祝福虚しいままほとんど焼け落ちてしまっていた。
留め具の緩んだ扉を這いつくばりながら頭で押すように開ける。訪れる信者が腰を落ち着かせるための長椅子は、組木が茨のように飛び出ただけの木片に等しく、神々の像を照らす吊り照明は無惨に落下して蝋燭と吊り鎖をぶちまけていた。
十二ある神々の像もその形を留めていなかった。奇妙なことに、誰かが意図的に砕いたかのようにバラバラになっていた。
そして石片と化した像の周りには、人であったもの達がそれぞれ祈るような姿勢のまま焼け焦げていた。
私はもう限界だった。目を開けているはずなのに何も見えなくなり、呼吸は絶え絶え、体の感覚もほとんど消え失せ、唯一得れる情報は甲高く鳴り響く耳鳴りだけ。
消えゆく意識の中で、赤子の泣き声が聞こえた。それが幻聴なのか、本当に聴こえているのか判別することは出来ない。私はただ一つ、その泣き声の主が救済されることを祈った。
そして私の意識は遠のいていく。
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