第2冊「邯鄲のあゆみ」④
「もちろん、好きな本を手に取った人の表情は、心は、澄みきっていて綺麗なものだったわ。美しかった。そんな表情を見て、わたしの心も浄化されていったの。そんな時に、あなたが来たのよ。代輔」
そう言って、架屋はぼくに向き直った。相変わらずパーソナルスペースという概念がないのかと疑う程の近くである。
「そんな中で、死にそうな表情で小説を手に取るのは、あなただけだった。教えてくれない。あなたは、どういう意図で、小説を買っているの?」
誤魔化して逃げようかと思ったが、そのタイミングも逸してしまった。仕方がない。この変態女に気付かれるのは癪だが、そこまで踏み込もうとするのなら教えよう。どうせこの女も皆と同じように、ぼくのことを
「鶴野閑雲のような小説家になるためだよ」
架屋はぽかんとしていた。
流石に知らない方々のために説明だけはしておこう。自分の知っていることを皆知っているとするのは、愚か者の愚考だからな。書店によく行く人ならば、小説コーナーで一度は見たことのある名前だろう。六年前突如として表れた新鋭小説家――鶴野閑雲。その素性、性別、年齢などの詳細情報は全くなく、素性は依然知れない。持ちうる作風は、鶴野閑雲であるということ――ただその一つに尽きる。何でも書くけれど、書いた後で読めば、「ああ、鶴野が書いた作品だな」と分かる。異常なまでの個性、ゆえに、鶴野自体が一つの創作ジャンルとして確立している――などという書評もあるくらいである。その真似しづらく緻密で――他に類を見ない雰囲気と、加えて逸脱した速筆によって、世間を沸かせた。否、今だって沸かせている。処女作、『一』から始まる《漢数字シリーズ》は既に大ヒットを記録し、最新刊の第八作、『京』は直木三十五賞を受賞している。また《寂しげな星シリーズ》の第一巻『冥王星の孵化』は、来年春にアニメ化が決定しており、《業務用探偵シリーズ》などはテレビドラマ放映が来期から予定されていたり、週刊少年ジャンプでは『オトシブミ』の漫画原作を担当していたりする。あまりこういう表現を頻繁に使うべきではないことは承知しているけれど、それでも敢えて――『歴史を変えた小説家』と、ぼくは呼んでいる。中学の時にその作家の本を読み、ぼくの人生は劇的に変わった――そう、劇的に。何も取り柄もなく、ただ親に言われた通りに勉強して、適当に社会のルールと仲良くして、『いい子ちゃん』でいるだけの自分にも、何かになろうと思えてしまうような、そんな小説家こそが、鶴野閑雲なのだった。
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