第2冊「邯鄲のあゆみ」②

「えっと、あの、ぼくが何かしましたか」


「不快なのよ」


 会話が成立しなかった。嘘だろう。日本語が通用しないとなると、言語能力を疑う。不安よりも恐怖が、先に立ってくるレベルだ。どうすれば良いのだろうか。そう思って右往左往していると、彼女は更にぼくの方に近寄ってきた。精神的距離が、相当なまでに近い人間であるらしい。彼女の白い肌と、眉毛が接近してきめ細かく見えた。細胞レベルで彼女を目視したけれど、見覚えはなかった。


 知り合いかどうか、問うてみたところ。


「いいえ、違うわ。初対面よ。まあ、この書店で小説を見るあなたを、わたしは一方的に何度か見ているけれどね」


 端的な表現で彼女はそう言った。いやいや、端的に言ったところで、何も誤魔化されはしない。つまりこの女は、初対面のぼくに対して「不快」と誇張するように四度も言ったのか。まともな人間のすることとは思えない。この異常者から直ぐに距離を置かなければ、そう思ったけれど、なぜか足が動かなかった。



「わたしの名前は架屋かおくあゆみ。私立滅金めっきん高等学校の三年生。ああ、心配しなくても良いわ、推薦で大学が決まっているから、勉強をサボって、この書店に通っているという訳ではないもの」


 別に聞いていないことを、淡々と話す。ぼくは彼女どころか書店から逃亡する計画を練っている所なのに、身体が思うように動いてくれない。まあ心のどこかで、書店で可愛い不思議な女の子と遭遇することを望んでいなかったと言われると嘘になるかもしれない。取り敢えず無視して逃げるだけの勇気はぼくにはなかったので、取り敢えず名を名乗った。


屋上やがみ代輔だいすけ、ね。至極普通な名前ね。わたしと屋の字が被っているのが気に食わないけれど、まあ良いわ。ねえ、代輔。あなたはどうして、そんな顔で小説を見ているの」


 そんな顔――と言われても、ぼくは元からこういう顔である。小さい頃親から言われなかったのだろうか。努力でどうにもできないものを否定するのは止めろ、と。反論しようとするけれど、その女子高生が、手鏡でぼくの顔を見せた。なるほどなかなかどうして、ひどい顔をしていた。三日三晩徹夜した顔でも、そこまでにはならないだろうという面持ちである。


「見たところ、鶴野閑雲の限定のムック本を購入しようとしていたようだけれど――それにここ数日、ずっと鶴野閑雲関係の小説を漁っているようじゃない?」


 見抜かれていた。どうやら彼女も、鶴野閑雲を相当知っているらしい。ぼくがここ数日、というかここ数か月で読んでいるのは、鶴野閑雲関係の書籍、また、鶴野先生がムックやインタビューで、「影響を受けている」と公言している小説ばかりであった。




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