第1冊「臥薪生譚」⑥

「さて――こんな所で立ち止まってはいられません。小説を書きに行きましょう」


「書きに行くって、どこに」


「家に帰って、に決まっているでしょう。取りえず駅前の紀伊國屋きのくにや書店で、小説執筆の指南書をいくつか購入しましょう。鬱屈としていたのが嘘のようです。さあ、時間はありません。今の私はとても気分が良いので、図書カードいくらかお貸ししますよ、臥雲くん」


「……いや、僕は、いいや」


「……? どうしてです。せっかく抜け道を見つけたんですよ。私たちは、もう失ってしまった小説像を追い続けなくって、良いのですよ?」


「いや、そういう意味じゃなくってさ」


「?」


「ほら――僕らってずっと小説を読む側だったじゃないか。そんな僕らが急に小説を書いて? それで、理想的な小説を書くことができると思うか?」


「…………」


「それだけじゃない。令和の今の世じゃ、小説の投稿用のネットのサイトもいくつかあるけれど、そんなものに登録したところで、簡単に小説家になんかなれない。それこそ信じられないくらいの時間を、執筆それに費やす必要がある。もちろん障害もたくさんあるだろう、誹謗中傷だって、非難だってあるかもしれない。そういうものを乗り越えて、現実を痛いって程痛感してまで、僕らは小説を書く必要があるのか? 。それを僕らは、一番よく分かっているだろ」


「……分かりました。臥雲くんは、葛藤しているのですね。小説を書くべきか――書かずに読者であるべきか」


「……まあ、そうだよ」


「現実を知っているからこそ躊躇ちゅうちょする――成程その気持ちは分かります。つい先刻までの私が、そうでしたから。そして臥雲くんの言うよう、小説は生活必需品ではありません。小説がなくなったからといって、死ぬわけでもありません。凹みはしますが、凹んだままでも生きてはいけます。そしていつか、その凹みは形状記憶合金のように元に戻り、つまり忘れていく。そうやって大人は生きている。ええ、そういう生き方は、正しく、さかしく、王道なのだと思います。――


「…………」


「なあなあで、曖昧模糊として、適当で、漫然で、だらだらと継続した挙句終わる物語なんて、誰も望んではいないでしょう。シリーズの続刊を途中で投げ出して、数年後に思い出したように終わらせてハイ終了――などという結末を、現実だからと受け止めることが、果たして面白い選択と言えるでしょうか。私は、より面白くありたいと思う――より面白い、物語じんせいでありたいと思う」

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