(11)お前の名前はーー画霊だ

 廊下の闇は一層濃度を増していた。足元を照らすのがやっと。壁に手をつきながら記憶を頼りに進む。


 かたん、と背後で何かの倒れる音がした。

 絵が追ってくる。そんな光景が瞼の裏に映る。

 確認しようとしても、どうせ見えない。


 階段まで急いだ。

 かたん、かたんと、音は徐々に増えていく。

「先生、いらっしゃいますか?」

 気を紛らわそうと声をかける。

 返事がない。

 振り返ると、そこには闇が広がっている。


 独り。


 叫び出しそうになった。

 じっとりとした視線が、首元に絡みつく。ずっと見られている。うるさい。廊下が、家全体が騒めいている。まっすぐ立っているのかどうかもわからない。家の中に沈んでしまいそうになる。


 耳元で吹きすさぶ風音が、自分の呼吸音だと気づくまでしばらく必要だった。


 もう一度前を向くと、最初に見た穴あきの絵画が目の前にある。いつのまにか階段まで来ていたらしい。


 進むか、戻るか。


 戻ったところで、解決の糸口は見つからないように思えた。


 そもそも解決とはなんだ?

 私の目的は?

 この現象を解き明かすこと?

 それとも家から脱出すること?


 何があっても仕事を投げ出さない。


 久遠さんの声が蘇る。


 踵を返し、廊下を駆けた。先ほどの絵が並んでいた部屋を目指し、壁に手を擦りながらドアを探す。爪の先が突起に当たる。手探りで取っ手を探し、勢いよく引き開ける。


 えっ、と声が出た。


 部屋は伽藍堂だった。加えて、部屋の全貌が入り口から見わたせることにも驚いた。まるで絵のひとつひとつが闇を発していたかのような……。


 もう一度、来た道を戻る。一階はまだ探索していない。

 踏み外さないよう慎重に、ただし駆け足で降りる。

 壁際のドアの周りだけ、手招いているかのようにぼうっと浮かんで見えた。


 ドアは半開きになっている。隙間から中を伺う。見えない。入るしかない。生唾を飲み込んで、ドアを開ける。


 ライトが何かを照らすまで、奥へと進む。廊下や他の部屋と違い、ここは板張りのようだった。足音が鳴るが、すぐに部屋へ吸収されていく。空気が熱い。粘り気があって、うまく肺に入ってこない。それなのに全身は寒さに震えている。頭がぼうっとする。耳鳴りが感覚を奪う。家に招かれた時のように、意識を無意識が乗っ取ろうとしている。進行方向からたくさんの視線を感じる。


 不意に、視界が戻った。目の前のものをはっきりと認識できる。できないままでよかった、と思った。


 数えきれないほどの絵が一様にこちらを見ていた。


 傷つき、汚れ、穴が開いた絵がイーゼルに立てられ、こちらを向いて整列している。

 まるで選んでくださいと言わんばかりに。

 あなたが入る絵を、選んでください、と。


 耳鳴りが酷くなる。視界が回った。

 意識を掴んでおくのも、もうできない。

 闇に溺れ、沈んでいく。

 先生は……どこに……?


「その昔、ある寺に女の描かれたぼろぼろの屏風があった。寺の周囲では怪しい女の目撃情報が多発しており、1人が女を尾けてみると、屏風の前で煙のように消えたという。また、他の者が屏風の女に白い紙を貼り付けると、目撃される女にも白い紙が付くようになった」


 声が聞こえる。静謐な声色。


「屏風はかつて、高名な画家が描いたものだった。画家の思念が絵に乗り移り、自分を修復してくれ、大切に保管してくれと伝えていたそうだ。寺の住職が絵を大事にしていくと誓ったところ、女はそれっきり現れなくなったというのがこの話のオチだ」


 先生の言葉に集中する。意識を手繰り寄せる。倒れていたらしい。床が冷たい。硬い床を叩く音が近づいてくる。スマホの明かりを音のほうへ向けた。


「たまゆらの存在を、私たちの理に当てはめようじゃないか。お前の名前はーー画霊だ」


 琴の音のような奥深い響きの声が部屋全体に反響し、やがて水を打ったような静寂が訪れた。

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