五の巻 五常の侍、魔道におちいりしこと その二

 一心がその浪人と再会をするのに、さほどの日々はあかなかった。

 なにかの任務、――といっても近所の住人たちからたのまれるの遠方への買い出しや届け物などのおつかいばかりであったが、その行き帰りに、例の飯屋の前を通ると、格子窓の隙間から中をうかがうのが習慣のようになっていた。

 ある日、その飯屋の前を通ると、ふいに、

「おい」

 と誰かに呼ばれた気がした。

 一心が立ちどまって店のなかをのぞきみると、あの男があの時の席に座って飯を食っている。

 呼びかけたのはその男の声ではなく、渋く深みのある声で、他の誰かを呼んだものであったろうか。

 一心は足をもどして暖簾をくぐると、女中にうどんをたのんで、その男の前の席に腰をおろした。

 他にも場所は空いているのに、よりによってここに座る一心に、男は怪訝な目で一瞥したが、また飯を食い始めた。

 そうしてひとしきり飯を噛んで飲み込むと、

「以前にもここでお会いしましたな」

 浪人は飯から目をあげずに言うのだった。

「ええ。それで外でおみかけして、ついここに座ったわけです。気にさわるのでしたら、他の席にうつりますが」

「いえ、そこにいてくださってかまいませんよ」

 こうして間近でみてみると、浪人の顔の肌の荒れがずいぶん目立つ。こけた顔にぼつぼつとはえている無精ひげが、貧相な見た目に拍車をかけているようだった。

 歳は一心よりも一回りくらい年長の、三十半ばくらいであろうか。

 、勢いで向かい合わせに座ってみたものの、一心はすぐに出されたうどんを前に、はて、なにを喋ろうか、と思いなやんでいた。

 すると、

「時々、自分が嫌になります」

 そんなことを浪人が話し始めた。

「まったく貧乏とは嫌なもので、前も、ちょっとふらちな考えが頭をかすめた。その時あなたと目が合った。それで、私のことが気になったのでしょう」

「はあ、ありていに言えば」

「ふふふ、やはり。それで、私の家まであとをおつけになった」

「あいや、そこまで気づかれていたとは、なんともお恥ずかしい」

「いやいや。お話しぶりからさっして、以前はいやしからぬご身分のかたと拝察いたしますが」

「江戸の北町奉行所で与力をしておりました」

「おお、それで。どうりで、あの時の私の目の色を一瞬で読みとったわけですな。尾行のしかたも、なかなか堂に入ったものでしたよ」

「いやいや」

 浪人はそこで、乾いた口を潤すように、味噌汁をすすった。

 一心もうどんをすすって、はたと気がついた。

「あ、遅ればせながら、わたくし、柘植一心と申します」

「おお、まったく肝心なことを。私は、三浦新左衛門みうら しんざえもんと言います」

 そう言って、ふたりは声を合わせて、はははと笑った。

「なぜ、奉行所の与力などとという、うま味のある仕事をおやめになったのですか」

「いや、私はどうも人づきあいというのが苦手でして。仲間内の軽薄さに嫌気がさしていたところに、つまらぬことで奉行と口論になりましてな。それを機に、弟に跡目をゆずって、お役御免を願い出たわけです」

「町奉行所与力、同心といえば、江戸の花形のように思っておりましたが、内実はいろいろありそうですな」

 一心は苦く笑って、うなずいた。

「失礼ですが、三浦さんは浪人されてもうずいぶん?」

「かれこれ八年になりますな」

「そんなに長く」

「その間に妻はなくなり、娘は病気になり、浪人というのはとにかく悲惨なものです。それも、大身の旗本であったにもかかわらず、主家が酒色におぼれて職務を怠慢したなどという、愚にもつかぬ理由でとり潰され……。侍などもううんざりです。そう言いながら、二刀を捨てきれぬ。なんとも、未練がましいものですな」

 三浦は、そう吐き捨てるように言うと、腹いせのように残りの飯を全部口いっぱいに頬張って味噌汁を流し込んで食った。そうして喉をならして飲みこんで、

「あいや、つまらぬ愚痴をこぼした。ゆるされよ」

 一心は微笑みながら首をふるよりしかたがなかった。

 新選組に紹介しましょうか、という一言を、先ほどから、喉まで出かけては飲み込んでいた。その単純な一言が、どうしても喉がつまったようになって出てこなかったのは、三浦の侍に対する嫌悪を、無意識に感じ取っていたせいかもしれなかった。

 それから、三浦は普段は日雇い仕事が多いとか、たまに実入りの良い用心棒の依頼がくるとか、どこそこの口入れ屋のおやじはがめつい、というようなことを語り、一心も新選組のことには触れず、書写のことやおつかい仕事の話をした。

「なぜだろう」と三浦は何かに気づいたようすで、「私は普段無口な性分で、挨拶もろくにしないと、娘に怒られるくらいなものですが、なぜか今日は喋りすぎました。不思議なものですな」

 三浦は懐から銭をとりだしながら立ちあがった。

「また会えますか」

 はじかれるように一心が訊いた。

「また会えたのなら、こうしてお話したいものですな」

 そう答えて、三浦は銭を女中にわたして、また以前のように娘の握り飯がはいっているのであろう包みを受け取って、こちらに軽く会釈をすると店を出て行った。

 ――あの口ぶりでは……。

 一心は腕を組んで、汁ばかりになったうどん鉢からたちのぼる湯気をみつめながら思った。

 あの口ぶりでは、俺と友達づきあいする気はないらしいな。偶然会ったなら口をききもするが、それ以上のつきあいはご免なのだろう。それとも、俺が新選組だと気づかれてでもいたのか――。

 そうして一心は格子窓の外を見やった。

 一抹の寂しさのようなものが、心を通り過ぎていったような気分であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る