五の巻 五常の侍、魔道におちいりしこと

五の巻 五常の侍、魔道におちいりしこと その一

 柘植一心つげ いっしんが、内職の写本を二条麴屋町にじょうふやちょうの書店まで届けた帰り道であった。

 新選組本隊からよろず課に異動して以来、月の給金は今までの半分の一両二分に減らされてしまったし、それでも通常ならば食うに困ることはないのだが、いかんせん、あの吝嗇けちゆさ・・が底暗いような光りを目に宿らせて、隊務の必要経費さえも個人に持ちにさせる始末だから、諸事において倹約を強いられ、なんとも胸の底からひもじさがこみあげてくるような気分であった。

 もう木々も紅や黄色に色づいて、吹きつける風にも身を震わせるような冷たさが混じり、ついつい背を丸めてうつむき加減に歩いてしまうのを、ふと気づいて立ち止まり背を伸ばして、はてと辺りをみまわした。

 辻々を気まぐれに折れ曲がって来たものだから、我に帰ればいま自分のいる場所がどこなのか、ちょっとの間考え込んでしまった。

 京にのぼってもうずいぶんの月日が経つのに、なかなか土地勘というものは身につかぬものだと、一心は内心苦笑する思いであった。

 それでも、左手に長い塀があるのは、おそらく津藩の京屋敷だろうと見当をつけて西に向かえば、やはり堀川の流れにぶつかった。

 ここまでくれば、もう迷うこともないだろう。

 路地を左に折れてまっすぐ進む。

 そうして、しばらく行くと、ふと腹が減っているのに気がついた。

 詰め所を出たのが四つ(午前十時)くらいだったから、もう正午をずいぶんまわっているはずだった。腹の虫も騒ぎだす時分ではある。

 飯屋をみつけて暖簾をくぐると、奥の席に座った人足ふたりがうまそうにうどんをすすっているのが目に入り、一心もつられてうどんをたのんで入り口近くの席に座った。

 ひとつ奥の飯台の向こうには、うらぶれた浪人がひとり、沢庵をかじりながら飯を食べていた。

 何の気なしに一心はその男を観察していた。

 油っけのない髪を自分で結っているようで、ところどころ毛がはねて髷がちょっとゆがんでいるし、彫りの深い顔の頬がこけて、大きな二重の目は落ちくぼんで影がこびりついているように見え、着流しのあわせの着物もつぎはぎだらけ、腰の物の塗りもはげているし、一心は、見ているだけで気の毒な気持ちが湧いてくるのであった。

 それきり、出されたうどんに気がいって、彼のことは忘れてしまった。

 うどんは、あまりきれいとはいえない店の雰囲気ににず、なかなかうまい。腰があって、京風のうす味のつゆではあったが、出汁の取り方に工夫があるのだろう、コクがあって心地よい甘辛さが余韻となって口にひろがり、江戸育ちの一心にも満足のいくうまさであった。

 そうして数口でたいらげてしまい、おかわりをたのもうかと迷っていると、ふいにまた向かいの男に目がいった。

 その男が、ちらっと女中を見、一心をみたのに、心がひっかかったのである。

 ――この男、食い逃げでもする気なのではないか。

 そんな気がしたのだ。

 だが、男の嫌な目の光は一瞬で、むっつりと席をたって、ごちそうさまともいわずに女中に銭をわたして、かわりになにか包みをうけとると、店を出て行った。

 ――嫌なものだ。

 と一心は自嘲する。

 昔の江戸町奉行所与力だったころの癖がいまだに抜けない。人を見ればつい泥棒と思ってしまう。我ながらいやしいものだ――。

 店をでると、自然、さっきの浪人の姿を目でさがした。

 男は堀川通を北へと歩いていく。

 ――つけてみよう。

 という気になったのは、やはり一心の元与力としてのさがのようなものだろう。

 詰め所とは反対の方角になってしまうが、一心はその浪人のくたびれた背中を追った。

 浪人は、しばらく北に向かうと、二条城を避けるように東へつま先を向け、二本ばかりはいった道を折れさらに北へと進んでいく。

 やがて浪人がたどりついたのは、男に似合いの、埃っぽい匂いの沈殿するさびれた長屋であった。

 一心は木戸口に隠れて男が部屋に入ったのを見届けてから、路地へと足を踏み入れた。

 ちなみに、今日は新選組の浅葱のだんだら羽織は着けていないので、別段すれちがう人たちからも警戒されもしなければ、畏怖されるるようなこともない。

 幸いというべきか、人の気配はまるでせず、一心は戸口の前で中の様子をうかがった。

「やあ、帰ったよ。別段変わりはないかい」

 と訊く浪人に、

「うん、大丈夫」

 と答えたのは、まだ年端もいかぬであろう、少女の声であった。

「あ、となりのお久おばさんが、なにかの佃煮を持ってきてくれたよ。あまりものだけど、って」

「そうか、あとでお礼をしにいかなくちゃな」

 男はなにかをふところから取り出したようで、紙の擦れる音がした。

「さあ、おにぎりを買ってきてあげたよ。おみの・・・、起きれるか。うん、無理をするんじゃないぞ。さ、父さんが食べさせてやるからな」

「大丈夫よ。おにぎりくらい自分で食べれるよ、父さん」

「そうか、これは失敬」

 浪人が乾いた声で笑って、かすれた声で少女がうすく笑って、二、三度咳をした。のどになにかつまったような、苦しそうな咳であった。

 おそらく労咳であろう。

 一心はその咳を聞きながら、その場を立ち去っていった。

 ――もういいだろう。

 そう思っていた。

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