四の巻 犬も歩けば怪異にあたること その六

「あれは、ひょっとして」結之介の後ろで、小首をかしげながら流子が、「朝東風あさごちではないかえ」

「あさごち?」

「あの額の菱形の模様、間違いない、松木さんとこの朝東風に相違ない。しばらく前から行方しれずになっておったのや。そうか、八房め、この間この近くを通ったときに恋していた朝東風をみつけて、毎夜通ってきておったのやな」

「しかしなぜこんな姿に」

〈その謎解きをするのは、ネクラ陰陽師にまかせろ。来るぞ!〉

 タケルの叫びに合わせるように、朝東風が飛びかかってきた。

 結之介は無心で棒を振った。タケルの赤い霊気をまとった棒がうなって、朝東風の鼻先を打った。朝東風はひるんで、後ろに跳びさがった。

「まって、結之介どの、たのむ、朝東風を助けてたもれ。あれは、八房の大切な恋人なのじゃ」

 流子の声を聞いた瞬間、結之介の脳裏に、あの日の少年の心象がよぎった。

 泣きながら、結之介にすがりつき、どうして犬を助けてくれなかったのかと、小さな手で着物の裾をつかんでいたあの光景が……。

 ――俺はもう、誰も見捨てない!

 結之介は腰を落とし棒を構える。

「タケル、あの犬を助けるぞ!」

〈おうよ!〉

 結之介が走った。

 応じるように朝東風も飛びだし、獲物を歯牙にかけんと、黄泉の入り口のような大きな口をひらいて襲い来る。

 結之介の体が右横にとんだ。

 朝東風の口が虚空を噛む。

 棒を振って結之介は前足の付け根を打った。

 朝東風が首を回した瞬間には、その背をくるりと飛び越えて反対側へ飛び移り、その腹を打つ。

 ぐるりと向きを変えて、朝東風が結之介に噛みつく。その寸前に結之介は跳んで朝東風の頭を蹴って、山脈のようなその背を打った。

 着地して振り返る。

 朝東風も振り向く。

「今、首筋に札のようなものが貼られているのが見えた」

〈ああ、オレも見た〉

 そうか、と結之介は理解した。八房がさきほど魔獣の首筋に噛みついていたのは、この札をはがそうとしていたからだったのだ。

「あの札が朝東風に霊気をあたえて操っているとすると」

〈札をひっぺがせばいいだけの話だ!〉

「行くぞ、タケル!」

 だが、今度は朝東風のほうがわずかに早く動いた。

 巨大な牙が眼前に迫る。

 結之介は両手で持った棒で防御する。

 朝東風が棒を噛み砕かんと喰いついた。

 棒が悲鳴をあげるように、ぎしぎしときしむ。

 気合い一声、結之介は鉄棒の逆上がりのように体をまわして、喉もとを蹴りあげた。

 たまらず魔獣は叫声をあげて口をはなし、体をのけぞらせた。

 大地を割らんばかりに蹴って、結之介が飛ぶ。

 首筋めがけて落下し、呪符を破壊せんとする。

 が、朝東風が首を振り上げた。

 はっとして、結之介は棒で防御した。

 ふたたび棒に歯牙が喰らいつく。

 喰らいついたまま、朝東風は首をぶんぶんと振り回す。

 結之介は振り落とされまいと、ぎゅっと棒を握りしめる。そうして、棒にやどるタケルの霊気をあやつって、朝東風に送り込んだ。

 電流が走ったように、ぎゃっとひと吠えして、朝東風はその口を開いた。

 勢いで飛ばされた結之介であったが、くるりと宙返りして着地した。

 魔獣の血走った瞳と、結之介の燃えるような瞳が絡み合う。

 と、その時であった。

 どこかから、笛の音が聞こえてきた。

 結之介も、朝東風でさえもその場違いな音のするほうに振り向いた。

 そこには、横笛を吹きながら、霊気の犬の覆面と尻尾をゆらして、黄色い霊気をまとった人影が藪からあらわれ、こちらに近づいてくる。

狛笛童子こまぶえどうじ!?」

 結之介の叫びに笛をとめ、

「誰が呼んだか知らないが、助けを求める声を聞く。狛笛童子、見参!」

 手に持つ笛は、その名の通りの高麗笛こまぶえであろう。その笛をさっと懐にしまうと、狛笛童子が飛んだ。

 黄色い霊気の筋が走り、朝東風の頭を木刀が打った。

 ぐらりと魔獣の巨体が揺れる。

「笛を吹いている暇があったら、とっとと助けてくれてもよかったんだけど?」

「僕が好敵手とみとめた相手がなにを弱気な。せっかく考えに考えた登場なんだから」

「どうせ今のをやりたくって、名前を狛笛童子にしたんだろう」

「うるさいな、僕の得意の笛を披露してなにが悪い。ケチをつけないでくれ」

「ケチついでに言っとくが、あの犬の命は奪わないでくれ」

「そんな悠長なことを言っている場合か」

「それでも俺はこの犬を助けたい」

「しかし、どうする?」

おとりになってくれ」

「なんだと!?」

 その時、立ち直った朝東風が体勢を立て直して、狛笛童子めがけて走り寄った。

 狛笛童子も間合いをつめて、朝東風の鼻先を打った。

 瞬間、狛笛童子の後ろにまわり込んでいた結之介が飛んで、彼女の肩を蹴って、さらに高く飛んだ。

 鼻先を打たれて、頭をさげていた朝東風の首筋にむけて落下しつつ、結之介は棒を振り下ろした。

 渾身の力と、膨大な霊気を込めて、呪符を打つ。

 霊気をあびた朝東風が悲鳴をあげてのけぞる。

 打たれた呪符は、結之介が地面に降りた瞬間に、弾けるように粉々に砕け散った。

 爆発するように、朝東風の霊気がはじけとび、たちまち魔獣はもとの秋田犬の姿へと戻っていった。

 ぐったりと崩れ落ちる朝東風に、八房がそっと近づいてよりそった。

 朝東風も首をもたげて、愛する夫に口づけするように、頬を寄せた。

 結之介と狛笛童子と流子は、その光景を微笑みながら見守るのであった。

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