四の巻 犬も歩けば怪異にあたること その五

 道の東の方角からひたひたと近づいてくる何者かの気配があった。

 八房やつふさである。

 秋田犬は息をはずませながら、結之介たちの目の前を通り過ぎていく。

 結之介と詠次郎は目顔で合図をすると、犬のあとをそっと追った。

 しんと静まり返った家々が田畑のなかに点々と横たわり、さわさわとざわめく路端の草木たちを薄い月明かりが照らしている。

 その幽冥のなかをふたりは黙然と歩をすすめた。

 すると右手に雑木林があって、八房は迷うことなくそのなかへと踏み入っていった。

 結之介もそのあとを追おうと、低木をかき分けようとしたとき、

「結之介君、待った」

 そう言って詠次郎が結之介の袖をひっぱった。

「どうかしましたか?」

「あれをごらん」

 詠次郎が指さすさきには、木々にさえぎられた奥のほうに、うすぼんやりと光るなにかがあった。

「なにか霊的なものを感じる。へたに近寄らないようがよさそうだ」

「けど、それでは八房がなにをしているのかわかりませんよ」

「うん、だがふたりだけで近づくのは危険だ。皆を集めてこよう」

「じゃあ、俺はここに残って様子をみていましょうか?」

「そうしてくれるかい。じゃあ行ってくるよ」

 詠次郎が立ち去る足音を聞きながら、結之介はその光をじっとみつめた。

「近寄るな、と言われると……」

 つい近寄りたくなるのが人情というものである。

 ともかく光の正体をつかむのが先決、と理由をこじつけて、そっと落ち葉を踏みながら、結之介は光へのもとへとむかって行った。

 そこは、三間(五メートル半)四方ほどの空間があって、その中心に一間ほどの大きさの光るなにかがあり、八房はそのまえでうろうろとしている。行くか行くまいか迷っているというふうに結之介には見えた。

 目をこらし、結之介はその光のなかにあるものを見極めようとする。

「犬、かな?」

 光の中心では八房に応じるように犬の影が右に左に動いていた。

 やがて、八房が意を決したように、光にむかって歩いてゆく。

 が、なにか壁のようなものに押し返されてように、八房の体が弾き飛ばされ、落ち葉の積もる地面へと転がってしまった。

 だが、不屈とも見える闘志をみなぎらせて八房は立ちあがった。そうしてまた光に向けて、今度は駆けて行った。

 決死の突進もむなしく、八房はふたたび弾きかえされた。

「八房!」

 結之介は思わず叫び、大きな秋田犬へと走り寄った。

 八房は、はっとしてようにこちらをみたが、それが(もう見慣れた)結之介だとわかったからか、すぐに光へと――そのなかの犬へと顔を戻した。

 この場所からは、なかの犬のようすがはっきりと見て取れた。

 犬は、八房と同じ秋田犬であろう。だが、ひきつった目は真っ赤に鈍く輝き、裂けたように広がった口からは涎をたらし、威嚇するように、「うう、うう」とうなっている。まるで恐水病(狂犬病)にかかったようだ。額の真ん中に、黒いひし形の模様があるのが目をひいた。

〈おい、結公〉

 手に持った五尺半(百六十五センチ)の棒に宿るミタマ、タケル(タケミタマ)が結之介に話しかけてきた。

〈あの犬、どうやらあの光に閉じ込められているようだぜ〉

「それはわかるけど、なぜ?」

〈なぜかはわからねえが、光はおりみてえなもんだ。その檻の霊気にあてられて、あの犬は完全におかしくなっちまってるな〉

「助けられそうか?」

〈さあな。オレは倒すほうが専門だしな〉

 ふたりが話しているうちにも、八房は、光の檻にむかって突進をくりかえしている。

 もう数日もこんなことをくりかえしていたのだろうか。檻が壊れるまえに、八房の体がどうかなってしまいそうに見える。

 しかしふと結之介は気がついた。

 さっきよりも、光の輝きが弱まっているようにみえる。

 とすると、この光は当初はもっと強く輝いていたのかもしれない。それが、八房の数日にわたる突進によって、しだいに弱まっていっているのではなかろうか。

 そして、何度目かの突進で、ついに光がばっとはじけた。中の犬を包んでいた殻が割れるように、光が周囲に飛び散った。

 八房は、なかの犬に近寄った。

 まるで久しぶりに飼い主に会ったように、いや、恋人に再会したように。

 だが、八房の想いは、無念に変わった。

 捕らわれていた犬は、すでに正気をなくしている。

 犬は、鼻を振り上げるようにして、近づく八房を弾き飛ばした。飛ばされた八房は、地面にしたたかに体全体をうちつけ、気を失ったように倒れ込んでしまった。

「八房!」

 結之介の呼びかけにはげまされたように、八房が立ちあがる。

 捕らわれていた犬は、毛を逆立てて、黒い霊気の衣をまとい、しかもその体自体がだんだんと巨大化していった。

 犬はすぐに人間ほどの高さで全長が二間(三メートル半)ほどの大きさになった。もはやただの犬ではなく、魔獣であった。魔獣は巨大な足で大地を踏みしめ、結之介に向かって山鳴りのような声でしばらくうなったかと思うと、雑木林をゆさぶるほどの大音声だいおんじょうで咆哮した。

 結之介の鼓膜がぴりぴりと音を立てて震える。

 咆哮がやむ。八房はまた突進する。

 魔獣が巨大な口を開いて、八房に噛みつく。

 だが八房はすんでのことろで横っ跳びに跳んでかわし、ぱっと地を蹴ったかと思うと、魔獣の背中に飛び乗り、首筋に噛みついた。怒りで噛みついたというより、相手を落ち着けようとして甘く噛んだようにもみえる。

 魔獣は噛まれた痛みからであろう、激しく首をふって、八房を振り落とした。

 飛ばされた八房を目で追った結之介の、その視界の縁に、なにかが走った。

「八房!」

 その影が叫ぶと、地面に転がる八房に抱きついたのだった。

「姫様!?」思わず結之介が叫んだ。

 阿野家の姫、流子であった。

 八房はしがみつく流子をいやがるように、吠えながら体を振った。

「落ち着け、落ち着くのじゃ、八房」

 流子が抱きつき、頬をすりよせると、八房は平静をとりもどしていった。

「姫様、なぜここにいらっしゃるのです?」

「すまぬ、結之介殿。こなた、いてもたってもおられず屋敷を抜け出して、そなたらに教えられたこの周辺を探し回っていたのや。そうしたら犬の吠える声が聞こえて」

「なんと無謀な。笹野殿はいっしょじゃないのですか?」

「さっきまではいっしょじゃったが、いつかはぐれてしもうた」

 もちろん流子の嘘である。

 ともかく、流子と八房を守らなくてはならない。

「さがっていてください」

 そう言って、魔獣の前に立ちふさがると、結之介は棒を構えた。

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