四の巻 犬も歩けば怪異にあたること その三

 夜ともなれば、夜気が身に染みる時節のことで、外での長時間の見張りはさけ、よろず課一行は阿野家炊事場の土間に、秋田犬の八房を連れ込み、その周りをとりかこむようにして、見張りを続けていた。

 今は土間に丸まっている八房であるが、人懐っこい性格のようで、はじめて会ったよろず課の者達にも吠えるでもなく、手を出せば、ハアハアいいながらすりよってきたりもした。

 しかし夜も深更となり、長い見張りにも飽きの気配がただよいはじめたようで、

「さすがに」と喬吾が口を開いた。「こんだけ人の目があると、逃げ出すにも逃げ出せへんやろ」

「俺、ちょっと考えたんですけど、逃げ出したさきがどこなのか、そこでなにをしているのか、探るのが目的ならわざと放してしまうのも手じゃありませんか」

「しかし、結之介、それじゃあ、俺たちの足では走る八房には追いつけんぞ」

「一心君、それならご心配なく。僕のハヤテの力を使えばけっこう速く走れるよ。まあ、あんまり遠くまで行かれると、息切れしてしまうかもしれんが」

「ほな、あかんやろ」

「一応、私の書いた札を首輪に結び付けておきました。これで、距離が離れすぎなければ、おおよその位置はわかります」

「さすがよろず課顧問役、やることが違うがね」

 そう言ったゆさは、ひとり板の間のうえで菓子を前に茶をすすっている。

 あきれつつため息まじりに結之介が、

「気楽でいいな、お前は」

「まあ、長丁場だでね、せっかくいただいたお菓子だで、あんたも食べやあ」

 そういって、切り分けられたカステーラの乗った皿を結之介にさしだすのだった。

「じゃあ、せっかくですから」「俺もいただこう」「俺ももらお」「私、カステーラなんてはじめてです」「僕も食べたことないな」

「しかし、カステーラとは、台所事情の苦しそうな家ですのに奮発したね」

「そう言ったりな結ちゃん。お公家さんかて、見栄も世間体もあるさかいな」

「ちょっと、待て!」一心の叫び声に皆がいっせいに振り向いた。「八房がいないぞ!」

 どうやってはずしたのか、首輪と柱をつないでいた紐が土間に垂れ下がって、八房の姿が忽然と消えているのだった。

「どういうこっちゃっ」

「俺、ほんの一瞬目をはなしただけですよっ」

「その一瞬で消えるなぞ、そんなバカなことがあろうはずがない」

「詠次郎さん」

 とゆさに呼ばれた詠次郎であったが、すでに板の間に地図を開いて、そのうえに一文銭を結び付けた糸をたらしている。

 なにか陰陽師の術なのだろう、と皆は解釈したが、話しかけず、じっとその姿をみつめた。

 地図のうえの銭がくるくると回っている。

「どうやら、西にむかっていますね」

 眉間にシワをよせて、詠次郎がうなるように言った。

「西?ここから西というと御所になるな」

「御所に入られたら、俺らじゃどうしようもないで」

「ともかく、追ったほうがいいのじゃないでしょうか」

「うん、結之介の言うとおりだ。ゆさはここに残ってくれ。入れ違いに八房が帰ってくるかもしれん。行くぞ!」

 一心の号令で、皆がいっせいに裏口から飛び出した。

 家禄三十石の阿野家の敷地は狭く、猫のひたいのような庭を横ぎって、裏木戸から抜け出し、西へ西へと一同は走った。

 すぐに御所(正確には仙洞御所)の塀にぶつかった。

 地面に地図をひろげて、詠次郎が一文銭をたらす。

「いちいち地図をひろげんとあかんのかいな」

 喬吾の嫌味を無視して、詠次郎が意識を集中させる。

「もう、御所の向こう側ですよ」

「そんな馬鹿な」一心が歯噛みした。

「いくらなんでも早すぎるだろう」夜十郎は茫然のていで塀をみあげている。

「しかたない、御所を回って追うぞ」

 この辺りは、現代の京都御所の一画であるが、幕末当時は大小の公家の屋敷がごちゃごちゃとひしめき合っていて、ある種の迷路のように入り組んだ町割りになっていた。

 その寝静まって黒く横たわった家々の間を縫うように、よろず課は走った。

 時々すれちがう侍や町人もいて、はっとして身構えるのだが、一同が新選組の羽織を着ているのを見ると、納得したように道をゆずってくれる。

 よろず課は、御所のちょうど反対側あたり、――ほんの数カ月前に騒乱の中心となった蛤御門のあたりまで来て、また足をとめた。

 詠次郎が地図のうえで一文銭をたらすが、

「すみません、見失いました」

「ううむ」一心がうなった。「ともかく周囲を探すしかあるまい」

 一同は周囲を捜索してみたが、八房の毛の一本、足あとひとつさえ見つけだせず、とほうにくれるような思いで、阿野家へと帰ることになった。

 台所にぐったりと座り込んで、

「こんなん毎晩つづけなあかんのかいな」

「ぼやくな、これも仕事だ」

「けど一心さん、喬吾さんの気持ちもわかりますよ。こんなことを続けていたら身が持ちません」

「だが結之介、今日はまだ一日目だ」

「なにか目処めどがあれば、僕だって気が楽になるんだけど」

「目処いわれてもなあ」喬吾がうなだれて、「なんやないか、顧問役」

「八房が、毎夜同じ道筋をたどっているのなら、少しは打開策も浮かびましょうが」

「そうか、そうだな」一心がなにか思いついたように、「仮定でかまわんじゃないか。同じ道筋をたどっていると仮定して、その先々に見張りをたてていけば……」

「見失っても何日かあとには目的地にたどり着けるっちゅうわけやな」

 そんな話をしているうちに、

「おい、帰ってきとるで、ワン公」

 いつの間にか八房が土間にすわって、しかもほどけていた縄もちゃんと結びなおされている。

「おいワンワン、うまい飯をやるから、どこに行っとるか教えてえな」

 八房、そしらぬ顔で寝息をたてている。

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