四の巻 犬も歩けば怪異にあたること その二
「犬、ですか」
一心はいささか意気を失ったように溜め息まじりに言った。
「以前、猫を探したことがありましたね」
「ああ、探しているうちに、家に帰っていたっけな」
「けっきょく、苦労したわりに謝礼は大根一本だったんだがね」
「謝礼……。謝礼……、とは、いかほどに」
流子は、不安げに問うた。それへ一心が、
「ああ、あまり気にせんでください。お気持ちだけで充分ですから」
「気持ちだけ。ほっとしました」
「気持ちだけ、というのは、感謝するだけ、という意味ではありませんよ、お姫さん」輝が姫の言葉を聞きとがめて忠告する。
「う、わ、わかっておりまする」
「それで、犬をいかがいたしたらよろしいのでしょう」とゆさが話をうながした。
「実は」と話しはじめたのは輝であった。「阿野家で秋田犬を飼っておりまして、名を
「八房?八犬伝の?」
「仔犬のころにいただいたんですが、秋田犬はけっこう大きく育ちますでしょう。こなたは伏姫みたいに、犬の背中に乗って走り回れるものだとばかり思い込んでいまして」流子が照れくさそうに笑って言う。
輝が咳ばらいをして話を続けた。
「その八房が、毎夜屋敷を抜け出して、どうもどこかに行っているらしい。首輪もしっかりつけているし、縄も太いもので杭に結つけてあります。それでも夜中にいつのまにか抜け出して、いつの間にか帰ってくる。足に泥がついていたり、体じゅう埃まみれになっていたりするので、外を出歩いているとしか思えないのです」
「話を聞きますと」と一心が、「犬が抜け出しているのを誰も見ていないようですが」
「そう、その通りなのです。八房が屋敷の外に抜け出しているのを見た者はいない」
「でも、抜け出しているという確証はある」
「はい。一度なぞは、私が寝ずの番をして見張っていました。普段は外につないでいるのですが、その日は土間に入れて柱につないで。それで、ちょっと何かの拍子に目をはなした一瞬に姿が消えている。私はひと晩じゅう探したんですが、まるで姿がみあたらない。そして明け方になるといつの間にかもとの場所に帰っていたのです」
「門や戸口などは?」
「確実にしまっています。犬が鍵を開けて抜け出すわけがありません。塀もそれなりに高く飛び越えたとは到底思えません。軒下も丹念に調べましたがいませんでした」
「どうやって、抜け出しているのか、どこに行っているのか、を探ればよろしいのですね」ゆさはずいぶん乗り気なようすで、前のめりで聞いた。
「はい、皆さまは、幽霊などがかかわるような不思議な事件も解決なさったとか。まさか、八犬伝の八房みたいに空を飛んでいるわけではないでしょうが、お力添えをお願いしたい」そう言って輝はぺこりと頭をさげた。
「かしこまりました」ゆさが胸をたたくようにして応じた。「明日から我ら一同が犬を見張って行き先もつきとめてみせますわ」
「しかし」と流子は不安げな顔をして、「さきほどもお話ししたとおり、こなたはいささか台所事情が苦しく、充分なお礼を差し上げられますかどうか」
「ええ、そのことでしたらご心配はなく。見張りの時に、お茶でも出していただければ、こちらとしては満足です」
そうしてゆさは声を落として、
「事件解決の暁には、私らの活躍をお知り合いにお話ししてくだされば」
公家たちにも、よろず課の評判が広まる、という抜け目ない魂胆である。
流子と輝にはいったん屋敷に帰ってもらい、夕食時になると、外出していた面々が頃合いをみはからったように帰って来た。
「八房?そういや昔、家の近所に八房いう犬がおったわ」喬吾が沢庵をかじりながら言った。
「俺の実家の近所の犬も八房でした」結之介が味噌汁をすすりながら答えた。
「江戸だと、そこらじゅうに八房がいたな」
「うちの神社の氏子さんのとこには小さい犬で八房いうのがおったわ」
「八犬伝の八房はいったい何犬なのでしょう。私、昔から考えると夜も眠れませんで」詠次郎が考えこむように腕を組んだ。「体格から言えば、やっぱり秋田犬でしょうか」
「秋田犬に、牡丹の形の模様はないだろう」
「じゃあ、甲斐犬あたりはどないや」
「あの犬はまだら模様だで、ありそうだがん」
「いや、それだと大きさがあわんじゃないか」
「外国の犬やあれせん?」
「あれ何時代の話だっただろう。戦国時代であったかな?」
「だったら、南蛮人が連れてきた犬の末裔とかありえますね」
「いや結之介、俺の覚えでは南蛮人が来るもっと前の話だった気がするな」
「じゃあ、なに犬だ」夜十郎は頭がこんがらがったようだ。
「ほら、そうなりますでしょう、ですから、夜も眠れなくなるんです」
「そんなことより、明日からは皆夜中に阿野家の屋敷で寝ずの番をしてもらう。今日はしっかり寝ておけよ」
「けど、ダンナ、ちょっと目をはなした隙にいなくなるような犬なら、どうしようもあれへんのとちゃう?」
「そこは、皆で見張って死角をなくすより方法はなかろうな」
「もしその犬が霊気を持っているなら、私のウタ(詠次郎のミタマ)が追跡できます」
「したら、多少気楽やな」
「だからって気を抜くんじゃないぞ」
「へい、ダンナ」
皆の八房談義を聞きながら、結之介だけはいささかうかない顔をしている。
「なんだ、結之介君、君は犬が怖いのか?」
「だ、だれが怖いものか。ただちょっと、考え事をしていただけだ」
「考え事とはなんだ」
「夜十郎君に語ることでもないさ」
「ふうん、あっそう」
夜十郎はやはり、結之介に対する態度に冷たさがある。ゆさの、結之介へよせる気持ちによるものではあるが、その結之介がゆさの気持ちにまるで気づいていない、ということも、夜十郎の冷淡さに拍車をかけているようだ。
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