第9話 馬鹿、バカ、ばか

 その日から、実幸がここに来る頻度が減った。少しだけ。


 という実幸の護衛騎士の独り言によると、あの日から勉強する日が増えた、とのことだ。勉強、してるのか。あいつ。珍しいこともあるものだ……。


 ……まあ、俺の言葉うんぬん、というよりは、「自分がここにいる人を助けなければいけない」というお人好し精神を発揮しているのだろう。勉強することが、誰かを助けることに繋がるのだ。普通の学校の勉強とは、ワケが違う。嫌でもやるだろう。……そこが実幸のいいところだ。

 それにしてもあいつは勉強が嫌いだし、苦手だから、相当苦労してるだろうがな。


 ……というわけで。


「フォンさん……俺をあいつのところまで、連れていってもらえないか?」

「どういうわけだ?」


「というわけで」は、モノローグではない。俺が実際に出した声だ。だから、どういうわけだ、と実幸の護衛騎士は、至極真っ当な疑問を口に出す。確かに彼にとって文脈は皆無だった。


「そろそろ、実幸が限界な頃だろうから」

「……何故分かる?」

「昔からあいつの傍にいた、長年の経験」


 端的に答える。それ以上でもそれ以下でもない。そろそろ……まあ、無理が度を越した頃だろうと。そう思った結果だ。


 護衛騎士は小さくため息を吐いた。そして、何も言わずに歩き出す。

 許してもらえたらしい。俺も何も言わず、彼の後ろを付いて行った。


 なんというか、俺はこの護衛騎士に認めてもらったような気がする。分からない。なんとなく、だ。なんとなくそう思う。相変わらず睨まれるが、その視線がどことなく弱くなったような……そんな感じがするのだ。

 何と言うか、好敵手ライバルに向ける視線、的な? うーん、説明が難しい。


 様々な視線に晒されつつも、特にトラブルなく実幸のいる部屋に辿り着く。相変わらず豪勢な部屋だ。きっと俺のいるところとは違い、衛生環境もいいのだろう。こっちはたまにネズミが湧く。可愛いもんだがな。あとたぶんこっちでは、名前は「ネズミ」ではないのだろう。異世界だから。

 ……そう思うと、実幸があっちじゃなくて良かったとは思うが……。


「勇者様、えー……貴女様の知己ちきの者が来ていますが……」


 俺と実幸の関係をどう言うか見物だったが、「幼馴染」をしっかり言い換えてきた。良かった、ここで「恋仲の者」とか言われなくて。きっと条件反射でこいつの後頭部を引っぱたいていただろう。無防備に頭を晒すのが悪い。


 それはそうとして、護衛騎士はそんな言葉とノックを最後に、1歩だけ下がる。もし実幸が出た時に、扉と衝突しないためだ。……しかし。


「……出て来ない……」

「入るか」


 訝しげな表情を浮かべる護衛騎士の傍ら、俺はあっさりそう告げる。すると護衛騎士はあからさまに身を固くした。


「……どうした?」

「いや……流石に許可なく入るなど……」

「……ああ、別にやらしい恰好なんて絶対してないから大丈夫だろ、保証する」

「なっ、誰もそんなことはなしてないだろう!!」

「はいはい騒がない」


 適当に言ったが、どうやら当たったらしい。健全な成人男性なようで何より。もちろん皮肉だ。


「実幸ー、入るぞー」


 念のため声は掛けてから、扉を開く。そして迷いなく入室。後ろにいた護衛騎士も迷ったみたいだが、結局こっそり入って来た。そういえば前見た時もこいつ、部屋には入っていなかったか。……初めて入るのかもしれない。そこの部別はしっかりしているようで良かった。

 さて、それはそうとして実幸だ。……まあ、予想はしていたが……。


 机に突っ伏して、寝ている。

 くかー、すかー、と、何とも気楽なものだ。数日前に突然異世界に飛ばされたとは思えないほどの馴染み様。……それは俺もか。かなり適応してきてるからな……この世界に。


 そんなことを考えつつ、俺はその肩を揺する。もちろん優しくだ。じゃないと、つい先日の様に殴られかねない。素直に受ける俺でもないが。


 何回も揺すってみたが、まるで起きる様子がない。爆睡だ。仕方ないので、俺はその体をゆっくり引き寄せる。そして……姫抱きを、した。


「……こ、」

「それ以上言うな、ぶっ飛ばすぞ」


 護衛騎士が何かを言い切る前に、俺は言葉を差し込む。どうせ恋人じゃないのかとか聞かれるだけだからだ。

 ……これはあくまで、幼馴染としての行動。それ以上でもそれ以下でもない。


 そのまま実幸を運び、ベッドに寝かせた。ベッドのスプリングは実幸のことを受け入れ、優しくその四肢を沈ませる。終いに彼女の足元にぐちゃぐちゃに放置されていた毛布を広げ、掛けてやる。少し風が吹いて、実幸の頬を黒髪が撫でた。


 すると、どの動作がきっかけになったかは分からないが、実幸が少し目を開けた。視線を彷徨わせ、やがて俺と目が合う。


「……よぉ、実幸。調子はどうだ?」

「……夢……? なんで、私の部屋に……うう、くらくらする……」

「……どうせこうなるだろうと思ってたよ。……知恵熱だ、馬鹿」


 そう言って俺は、実幸の額を撫でる。前髪がさらりと揺れて、ん、と短く実幸が呻いた。


「……ばかじゃないもん」

「馬鹿だろ。……一気に勉強するんじゃなくて、こういうのは小分けにすればいいんだよ」

「……でも私、ばかだから、早く、いっぱい、勉強しないと……ここの国の人、助けられない……」

「……」


 結局自分のこと、馬鹿って言ってるじゃねぇか。そんなことを思いつつ、手は実幸の額や頭を優しく撫で続ける。……いつも人懐っこくて、誰にでも心を開いている実幸だが……こういう時は、俺が付いてないと駄目だ。他の奴には、任せられない。

 それはやはり、実幸に1番信頼されているのは俺だという、自負があるから。


「……でも、お前が倒れたら意味がない。それは分かるよな?」

「……うん……」

「じゃあしっかり寝て、早く体調治すんだな」


 実幸は頷く。少しだけ不満そうに。そんな表情を見て、俺は苦笑いを浮かべて。


「ほら、お前の好きな林檎粥置いとくから」

「!」

「はい、突然体を動かすな」


 予想していたので、俺は実幸の肩を押し、実幸が起き上れないようにする。実幸はジタバタしていたが、無視した。ベッド脇の小さなテーブルに林檎粥を詰めた保冷箱(厨房にあったので拝借した)を置き、ようやく解放してやる。


「少し寝てから食え」

「……じゃあ寝るまで、傍にいて」

「10秒で寝る女が何言ってんだ」


 いるよ。返事の代わりに頭を撫でて。


 10秒どころか5秒で寝た実幸に、俺は笑ってしまうのだった。

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