第2話 生贄の少女


 どんより曇った濃灰の空の下、濁った海に浮かぶ数十の島々に住まう人々は古来より頻繁に発生する津波や荒波に苦しめられていた。


 数十の島の一部は荒ぶる波を『海の神の怒り』と受け取り、怒りを沈めてもらおうと毎年、島が代わる代わる小動物や木の実や生贄を海に捧げる儀式を行っている。


 この日も、生贄を捧げる習わしを持つ島々の1つ――ラリマー島の少女が簡素な小屋の中で、贄として捧げられる為に生まれて初めての化粧を施されていた。


 少女の名はマール。青みを帯びた黒髪を持つ今年10歳になったばかりの、可愛らしい少女である。

 贄の服として作られたローブを身にまとい、自然の物で作られた装飾品で頭や首や腕を飾るマールの傍で同じ髪色の、顔立ちの整った少年がじっとうつむいていた。


「マール……ごめん、何の力にもなれなくて」

「グリム、気にしないで! 私、島の皆の役に立てて嬉しいの」


 マールの両親は彼女が5歳の頃、漁で高波に攫われて帰らぬ人となってしまった。孤独になったマールを育ててきたのは同じ島に住む人達である。

 例え他の島に要請された時に差し出される為に育てられてきたのだとしても――マールはこれまでの生とラリマー島の人達に感謝し、自分の運命を受け入れていた。


 反対に生贄になるマールが納得しているというのに贄から最も程遠いこの島の長の息子、グリムはまだ納得できていない。


「……実際に海神様から『生贄が欲しい』なんて言われた訳じゃないのに」


 もうじき自分の父親がマールを生贄の場に連れて行く状況になってもグリムはまだマールとの別れを受け入れる事ができず、化粧係の女性が出ていってマールと2人きりになった所でポツリと不満を漏らす。


「でも、この辺りに巨大な海蛇が住み着いちゃったんでしょ? 島の皆が言う通り、海神様がこの島の生贄を求めてるんだと思う。私が海神様の元に行けばきっと海は静まるはずだよ!」

「マールが贄になったって静まるとは限らない! これまでだって生贄を捧げても荒れてた年の方が多いんだ……!! ずっと昔、供物を海に投げこんだ人が不注意で海に落ちて行方不明になった年にたまたま波が穏やかだったからって、何処の島にも生贄を強制するなんて……!!」


 グリムの言う通り生贄の発端は不幸な偶然だったのだが、それが周囲に知れ渡り儀式に生贄が求められるようになるのにそう年月はかからなかった。


「グリム……これまで私達は他の島の生贄によって生かされてきたんだよ? なのにこの島が贄を差し出す時が来たのにそんな事言ったら駄目だよ。島長様から聞いたでしょ? 贄を出し渋った島はもう他の島に受け入れてもらえないって。だから私が嫌だって言ったら他の子が生贄として差し出さなきゃいけないって……」

「でも、だからって何で、何で、マールが……」


 この海に浮かぶ島々はそれぞれ足りない物資を補い合う。生贄の儀式を行っていない島も少なくない。

 しかし、儀式を行っている島々に囲まれたラリマー島が他の島に一切受け入れてもらえなくなるという事は、他の島に行く為の物資の補給が一切できなくなるという事だ。

 それはラリマー島にとって死活問題であった。


 マールもグリムも、過去に生贄の儀式を断った島が津波の被害にあい、物資と人手を求めてやってきた男の姿を一度だけ見た事がある。その男を島の大人達が冷たく槍や弓を向けて追い返す姿も。


 追い返された男の絶望した表情と叫びは幼いマールの心に深く焼き付いている。


「……私、お母さんもお父さんももういないし、兄弟もいないし……仕方ないよ。それに私、皆大好きだから……私が贄になればしばらくラリマーから贄を出さなくてすむじゃない? 役に立てるのが嬉しいの」


 そう微笑むマールの言葉と表情に嘘はない。ただ、全ての気持ちを吐き出していないだけで。


(皆大好きだから……嫌だって言って、嫌われたく、ないから)


 10歳の少女の負の感情が優しさと恐怖心によって抑えられた所で部屋に黒髪の体格の良い中年の男が小屋の中に入ってきた。


「マール、時間だ。お別れの挨拶は済んだか?」

「父さん……! やっぱりこんなの間違っ」


 父に訴えかけようとするグリムはその手が父親の服に触れる前に殴り飛ばされる。


「グリム、いい加減にしろ!! お前はこれまで捧げられた贄達を見殺しにしてきた癖にいざ知人が差し出されるとなったら抵抗するのか!? それでこの島の者や他の島々の者が納得すると思ってるのか!?」


 父親の怒声にも屈さずにギリ、と歯を砕かんばかりに噛みしめるグリムの口元に血が滲んでいるのを見たマールは、今にも泣きそうな顔で小さく首を横に振った。


「グリム……本当に、もういいの。グリムとはお別れになっちゃうけど、でも、お父さんとお母さんにはまた会えるかもしれない」

「すまんな、マール……では、行こうか。お前達、儀式が終わるまでそこにいる馬鹿を抑えておけ」


 悲痛な声を上げるグリムを島長の後ろにいた男達が抑え込む。その光景に心痛めながらもマールは島長の後に続き――部屋を出る前に一度だけ振り返って、微笑ってみせた。


「さよなら、グリム……私、波を穏やかにしてもらえるよう、海神様に一生懸命お祈りするから!」

「マール、マール……!」


 縋るようなグリムの声はマールが小屋を出てからも響いた。

 前を歩く島長が2度ほどため息を付いたが、マールに改めて声をかける事もなく、集落の入り口の方へと歩いていく。


 その後と無言でついていくマールはちらりと周囲を見回す。

 小屋がいくつも点在し、この時間帯なら畑を耕す人や外で遊ぶ子どももいるはずなのに、誰一人いない。


 仕方がない事、と自分に言い聞かせながらマールは自分の瞳が少し潤むのを感じ、涙をこらえているうちに集落の入り口で待っている男達と合流する。


(見た事無い人達がいる……)


 集まっている男達のうち、大きな麻袋を抱える男をマールは知っている。この島の人間だ。何度か挨拶を交わした事もある。

 しかし、他の3人――弓矢や槍を持って自分を冷めた目で見据えてくる見覚えのない男達の姿にマールは違和感を覚える。


(そう言えば……私が逃げ出さないように他の島からも見張りが来る、って島長様言ってたっけ……)


 彼らが贄がちゃんと役目を果たすか見届けに来た者達である事は島長に改めて尋ねずとも、手に持っている武器と自分達に向ける眼差しからマールにも理解できた。


 ここから先、もし逃げ出しても死が早まるだけだという事も。


 集落を出るマール達を見送る人間も誰一人としていない。


 別れの言葉を言い合えば贄の緊張が解けて泣き出し、逃げ出すのではないか――という恐れを皆抱いているのか、マールが生贄に決まってからこの日まで、今も小屋の中で暴れているだろうグリム以外、マールに近づこうとするものはいなかった。


 見送りはおろか儀式が行われる場所へ行く道中も一切私語すら許されないような厳かな雰囲気の元、誰も声一つ発する事なく海岸に辿り着いた。

 ところどころに木や石がうちあげられている白い海岸には小舟が3てい停まっている。


「後は俺達に任せてください」


 槍を持った男がそう言って供物が入った袋を受け取る。男が島長と袋を持ってきた男に戻るように指示すると、2人ともマールに視線すら向ける事もなく立ち去った。


 同じ島の者に死にゆく様を最後まで見届けさせるのも忍びない――という配慮と、窮地の裏切りを避ける為に生贄が海に身を投げるのを見届けるのは他の島の監視役の役目だった。


 だから島長と島の男の行動はおかしい事ではない。しかし、今生の別れと分かっている場所で言葉一つ交わさない姿に他の島の男が一人、哀れみを覚えていた。


「薄情なもんだな……」

「そうか? 孤児相手には何処もこんなもんだろ」

「何か叫んでる奴がいただけ、この子は恵まれてるよ……じゃあ、ここから先は俺の船を使おう」


 3人の男達がヒソヒソと言い合う中、マールは小舟に乗せられる。マールの足元には供物が詰まった袋が置かれた。


(透き通るほど綺麗な水色も、底の見えない深い青も、もうしばらく見てないなぁ……せめて青空と青い海に包まれて死にたかったな)


 舟が島から離れていく中、マールはぼんやり思う。やはり何一つ会話をしないまま沖に出てしばらく経った所で男達の櫂を漕ぐ手が止まった。


「おい……何か食べたい物があるなら食ってもいいぞ」

「おい、海神様の為の食物だぞ」

「いいじゃねぇか、少しくらい。これから自分がどうなるかってのを知ってる上でここまで泣き喚かずに大人しく来てるんだ。最後に少しくらい良い思いしたっていいだろ。この子が食べようが海神様が食べようが同じようなもんだろ」


 先程マールを哀れんだ、無造作に髪を縛った男の言葉に男二人は何も言えずに黙り込む。

 食べるように促されたマールは供物が入った袋を開けてみた。


 中には滅多に食べられない鳥肉を焼いて串に刺した物や、他の島からの供物なのかラリマー島では見かけない果物など珍しい物が視界いっぱいに入る中、マールは小ぶりで艶めく、独特の甘みが口いっぱいに広がるアズーブラウの実を取った。


 ラリマー島に自生する、手軽に食べられる小さな果実を選んだ事に周囲は少し戸惑ったが、マールは思い直す事無くそれを口に含んだ。


 最後に食べる味は冒険するより、食べ慣れた好きな物が良い――その位の感覚で選んだ実の味わいと共に懐かしい想い出が頭に広がる。


 マールの両親が生きていた頃――この実が熟し始める頃に時期にグリムと森に入って、この実を取った数を競い合ったり隠れて食べあったりした事。紺碧に染まった舌で食べた事がバレて両親に怒られた事。

 その翌朝、グリムも怒られたから今度からあの実は美味しいけど食べないようにしよう、と笑いあった事。


(お父さんと、お母さん、本当に私を待っててくれてるかな……? だとしたら嬉しいな……)


 そう思うのに、涙は止まらない。そんなマールを見かねたのか監視役の男達もそれぞれ視線をそらした。


(今の気持ちで……今の気持ちで、死ねるなら……)


 マールは袋を抱えてスッと立ち上がる。そして海の方を向いた。

 少し荒い波は海神が早く贄を寄越せと言わんばかりに船を揺らしているように感じた。


「本当にそれだけでいいのか?もっと食っちまっても」

「これで十分です……供物は海神様の物だし。あの、皆さん、ここまでありがとうございました」

「……海神様によろしく頼むって言っといてくれ」


 マールの声が微かに震えている事に気づいていたが、ここで情を見せれば他の2人に殺され、自分が代わりに贄になりかねない――自分の命を犠牲にしてまで少女を憐れむ者はいなかった。

 ここにいる男達はもちろん、ラリマー島にも。


(分かってる、分かってるの……皆、大切な物があるの)


 マールはギュッと目をつぶり、舟のヘリに足をかけ、抱える袋の重さに頼るように体を海の方へと傾けた。


 海に落ちたマールを見届けた男達は無言で再び櫂を取り、小舟を漕ぎ出す中、櫂を持たぬ男が一人、万が一にでもマールの悲鳴が聞こえないように強く耳を塞いでいた。




 贄の服が体に張り付いて思うように身動きがとれない中、マールはただ目を閉じて袋を抱える。


(……何で、私なんだろ……身寄りのない子だったら、他にもいたのに……セナだって、ククルクだって……)


 一人になって強がる必要もなくなったマールの心の緊張が解け――押さえ付けていた様々な疑問が吹き上がってくる。


(海神様だって美しい子の方が嬉しいんじゃないの……? 何で私なの……何で、何で……!?)


 徐々に息が出来ない辛さに苦しめられていく中、突然何かに引き寄せられるような感覚を覚え、動揺しているうちに肩に激痛を感じた。



(痛い!! 痛い、痛いよぉ!!)



 マールの肩から血が大量ににじみ出て海水を赤く染めると同時に醜い感情が心いっぱいに吹き出す。もうそこには他人への思いやりも優しさも何処にもなかった。


(痛い、熱い、苦しい……!! どうして? どうして、どうして私が死ななきゃいけないの!? どうしてグリムは生贄にならないの!? 島長の息子だから!? 偉いから……!? 偉い人や美しい人を生贄にした方が、海神様だって喜ぶんじゃないの……!? 酷いよ……痛いよ……!!)


 激痛と息ができない苦しみに、見捨てられた怒りと死の恐怖に苛まれながら醜い感情がどんどん吹き出て幼い少女の心を――魂を穢していく。


 激痛が肩でなく急所であればまだ、何も分からないまま、苦しみだけで、いっそ苦しみすら無いまま死ねたかもしれない。

 しかし肩の痛みはマールに死の安息を与えず、ただただ彼女を失望へと突き落とす。


(グリム、何も出来なくてごめんって……一緒に逃げようって言ってくれなかった……!! セナもククルクも、替わるって、言ってくれなかった……!! お父さんも、お母さんも、島長も、皆、皆、酷――)


 ゴボゴボと息を吐きながら意識を手放したマールの魂が、痛みや悲しみと苦しみによって醜く染まりはじめていく――その事に誰より焦り慌てる存在がマールのすぐ傍にいた。


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