最終話 三月、氷解
三月も末に差し掛かり、暖かな春の日差しがうずたかく積もっていた雪をみるみるうちに溶かしていく。
その頃の寺岡には新たな日課ができていた。
家からずっと坂道を下り、適当に一回りして帰ってくる気ままな散歩だ。
寺岡の目的はただ一つ。
往復の途中にある「風美鶏」への入口の雪が溶けていないか確認することだった。
除雪車によって高く積み上げられた雪は、道路から雪が消えた後もしばらく残る。
それでも、一番多い時で寺岡の背と変わらぬくらいあった雪はもう寺岡の膝くらいの深さまで減っていた。
「これなら行けるかもしれんな」
寺岡は心を決めると、獣道があったであろう所に足を踏み入れた。
ずぶずぶと足が雪に沈み込む。
長靴を履いて出てきたが、それでも雪は靴の中に侵入してきそうだ。
寺岡は少しずつ雪を踏み固めながら進んだ。
雪にはまって身動きが取れなくなることだけは絶対にあってはいけない。
こんな所ではまったら助けに来てくれる人などいないのだから。
春の陽気に温められた寺岡の体にじわりと汗が滲む。
額に浮いた汗を拭いながら、寺岡はひたすら先を目指して歩いた。
とうとう見えてきた赤い屋根。
それだけで寺岡のテンションは跳ね上がった。
子供のように軽やかな足取りで「風美鶏」に駆け寄って、寺岡の動きが止まる。
そこにあったのは、ずいぶんと古ぼけた、今にも崩れ落ちそうな廃墟だった。
屋根の上に据えられていた店のシンボルとも言える風見鶏は、台座だけを残してなくなってしまっていた。
窓に目をやると、ガラスは全て割れて枠だけになっていた。
ボロボロになり日焼けで色あせたカーテンが風に煽られて幽霊のように揺れている。
どう見てもたかが三ヶ月余りの間に荒れた建物ではない。
何年もの間放置されてきた廃墟だ。
寺岡は恐る恐るドアに手を掛けた。
ギィィィィ……と重く軋みながらドアが開く。
それと共に流れ出してきたカビとホコリの臭いに思わず顔を背けた。
「嘘……だろ?」
床板を踏み抜いてしまわぬよう慎重に店の中へ入る。
歩けば寺岡の足跡が残るくらいホコリが厚く積もっていた。
「マスター! なあ、マスター!!」
呼び掛ける声は枠組みだけの窓へ流れて消えてしまう。
懐かしい音楽を奏でていたレコードはめちゃくちゃになって床に散乱し、コーヒーを出してくれていたカップは粉々に砕けていた。
変わり果てた店内に驚愕しながら辺りを見回していると、日に焼けてホコリまみれになった一冊の本に目が止まった。
マスターが勧めてくれた原書のグリム童話だ。
パラパラとページをめくると、寺岡が前に挟んで帰っていた栞がはらりと床に落ちる。
そこでようやく自分がここに来ていたことに間違いはないと確信できた。
「マスター、いつものを頼むよ」
半ばうわごとのように寺岡は繰り返し呼び掛け続けた。
それに応える声はない。
グリム童話の本を手に彷徨っていた寺岡は引き寄せられるようにカウンターに近付いていく。
これまでは決して入ろうとしなかった聖域、カウンターの中へ向かう。
そこにあったものを目にし、寺岡は膝から崩れ落ちた。
「あぁ……マスター。今までありがとな」
頬を伝う涙を拭いもせず、寺岡は何度も何度も感謝の言葉を繰り返す。
その眼差しの先にあったのは、立派な狐の死骸だった。
「いつもの」 〜丘の街の不思議な喫茶店〜 牧田紗矢乃 @makita_sayano
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