第15話 完全調和
——豊かな緑に囲まれた安寧が地獄に変わったのは、一瞬だった。
漆黒の稲光が地表を貫き、三メートル近い怪物が黒煙の渦から顕現する。
文字通りの、晴天の霹靂——。
黒い
右手には大太刀が握られ、一振りすれば、周辺の緑など容易く平地に変えるだろう。
『『ゔァあああああああああああああああァァァァァァァァァッッ————‼︎』』
人の断末魔が、さながら獅子の猛りのように響く。
背中を向けて無造作に駆け出す群衆を、顕現した禍津が逃すはずもなく——地盤を踏み割り、虚空を跳ぶ。
耳慣れない風切り音が鼓膜を掠めたその時、一人の少女が恐慌する人の群れに圧されて倒れてしまった。
立ち上がろうとしたその時、巨大な影が日の光を覆う。
振り返れば、漆黒の巨像。
逃げることも、喚くことも、そして呼吸する事すら忘れて、ただ目の前の死に空白した。
振り切られる大太刀。その速度、常人からすれば残像しか視えない。
夥しく大気を漂う煤は、奇しくも蝶の鱗片を思わせた。
しかし、その鋼が
再び地を踏む禍津。目の前には、真紅の火の粉が、それこそ蝶のように舞っていた。
軌跡をなぞり、その正体に目を凝らす。
逃げ惑っていたはずの群衆さえ、その凛然たる姿には目を
黒い
その神子は、抱きかかえた少女をゆっくりと地面に下ろすと、朗らかに微笑んだ。
「もう大丈夫だぞ。さぁ、早くお母さんのもとへお行き」
だがその直後——。
「後ろ——ッ‼︎」
背後から迫り来る疾風に、周囲の声が叫喚した。
しかし、これを感知出来ていない晴葵では、当然ながらない。
奏でるは清涼な音色。
剥き出された牙は赤く唸り、振り下ろされる鉤爪に勇ましく噛み付いた。
その軌道は、さながら空高く昇る朝日の如し——。
鋭利な金属音が耳を
火花を散らし合う牙と爪。
背後には、まだ足を竦ませている女児が居る。
下手に弾けば二撃目が彼女を標的とし兼ねない。
晴葵は視線だけを背けて、可憐な花に光を射した。
「ここは姉ちゃんに任せな」
温和な、——けれど何処か真剣な眼差しに、少女は悟ったように髪を翻す。
「さてと、まだ若干の観客が居るが……長居は無用——ッ‼︎」
途端、赤き牙が、漆黒の爪を圧し退いた。
飛沫を上げる
鼓膜を貫くは、鋼の断末魔。
開いた獣の胴体に、晴葵の
『 日向暁天 黎明——‼︎ 』
夜を裂く暁の地平が一直線に
「やった‼︎」
しかし、その喜びに満ちた僅かな歓声は儚く——。一人の男が深刻な声を奮い立たせたことで、場は再び凍り付いた。
「いや、あれ……」
確実に斬り裂いたはずの胴体が、地に還るこなく浮いている。——いや、正確には吊るされている。
切断されたはずの下半身の断面から延びる黒い液体。それが、落下する上半身を支え、今にも繋げんと持ち上げているのだ。
「はぁ——ッ⁈」
更に由比ヶ浜方面から、追加の黒液が飛来。瞬く間に修復されてしまう。
「な——ッ⁈」
「(どうなっていやがる……。水を操る技術が、こんな時代遅れの武士にあるとは思えねー。となると——)」
睨み付けるは、海面を行進する女型の巨人。
「海の母様々だなーおい。あれ倒さねーとコイツも始末出来ないのかよっ‼︎」
直後、降りかかる一撃。
難無く自身の刀で受け止めたが、驚くべきはこの直後だった。
北東の方角に、三度目の霹靂が飛来する。
「はァ——ッ⁈」
思わず間抜けな声が漏れる。
正直、目の前の一体ぐらいなら、余裕で持ち堪えられる。しかし、おそらく晴葵のその余力を悟ってのことだろう。
「(ヤロウ……ッ‼︎ もう一体で強襲しようってか——っ⁈)」
流石に別の個所にまで手は回らない。
「(あの二人なら……余力次第で片方を回してくれると思うけど……)」
——否、それは幻想であった。
二人は本体と闘っているのだ。
御三家と言えどそれほどの
「——まったく近づけないし、手も足も出せないぃいいいいぃぃぃぃ————ッ‼︎」
桜の大輪に身を隠し、放射されるレーザーを防ぐばかりの明依と日音。
轟音だけが吹き荒び、大地が揺れる。
浜辺の砂は嵐の如く撒き上がり、肌を掠めるたび、針を刺したように痛む。
それでも、鳴動する地平に足を呑まれぬよう、必死に根を張った。もしも吞まれれば、その瞬間に二人は、人間魚雷となって街を穿つだろう。
肝心の相手は海で立ち往生。——いや、浮き往生か。
無尽蔵に放たれる光の弾丸から防衛するばかり。これでは
「(一か八か、やるしか——ッ‼︎)」
あらかじめ、思いついていた作戦ではあるが、そのあまりの危険さと無謀さに、発動を躊躇していた。
しかし、このままではアレが地上に上陸してしまう。
なりふり構っている暇はなくなったのだ。
「——日音ちゃん!」「——明依ちゃん‼︎」
調和する二人の声。発したのは同時だった。
おそらく、考えていることは同じ。——それは、互いの目を見れば解るものだった。
精密と言っていいほどの周波数には、こんな状況ながら笑ってしまう。
けれどだからこそ、信頼出来る。
淑やかに微笑した所で、明依の瞳が真っ直ぐに煌めいた。
「——出来る? 日音ちゃん」
「……明依ちゃんが日音を信じてくれるなら、日音も……明依ちゃんを信じるよ!」
「——苦戦してるみたいだな……あの三人」
江の島シーキャンドルの展望台から、由比ヶ浜の様子を眺望する土方達。
神社に逃げ込むよう言われたが、狙いがこちらでないのならその必要はない。
心配そうに明依達の戦闘を眺めるクラスメイト達。
しかし、その懸念を逆撫でるかのような雷鳴が、北東の方から轟いた。
「うそ——ッ⁈ もう一体——ッ⁈」
「海の方は二人で手一杯どころか、むしろ力不足なのに……ッ‼︎」
「誰か他に神子は居ないのかよ‼︎」
その言葉に一人、苦しそうに胸元を締め付ける者が居た。
噴き出る何かへ、必死に蓋を押すように堪えている。
しかし、刹那に奔ったいつかの明依の言葉。
『 ——やっぱり私は、傷つく人を見たくない——増やしたくないから—— 』
今、視線の先で傷つき、自分たちの為に戦ってくれている純粋なまでに真っ直ぐな善人。
誰かのためなら、自身の痛みすら忘れて仕舞えるほどの、筋金入りのお人好し。
対して自分はどうか——。
痛みを拒み、傷を恐れ、何事に於いても苦しみたくなかった臆病な女。
誰かに認めてもらいたい。
誰かに必要とされたい。
誰かに、愛されたい。
——ただ自分が、嫌われたくない。
だからこそ、陰に潜んだ。
けれど遠星 明依は、何を恐れるでもなく、何事にも真っ直ぐに前向きだった。その結果、いま彼女は、誰からも賞賛され、応援されている。
——私も、同じように苦難へ立ち向かえたら、みんな、私を褒めてくれるのかな……。
気が付いた時、大崎の足は建造された床を踏み込んでいた。
「お、大崎さん——ッ⁈」
伊予の動揺を聴きとめる事もなく、気が付けば彼女の身体は、虚空へ弾道を刻んでいた。
「え——ッ⁈」
高く、高く、炎天の空に気高く舞い上がる。
それは風に舞う花か、あるいは羽化したばかりの蝶か——。
星の
——私も、遠星さんみたいにっ‼︎
風に煽られ空を泳ぐ白亜の美髪。丁寧に編み込まれ、小さく可憐な少女の背中を今まで幾度となく護ってきた。
しかし、今その背中には、何よりも逞しい純白の和装が華やかにあしらわれる。
丈は非常に短く、着物の裾は膝にすら達していない。
長く細い脚線を厚手のタイツが纏い、瑞々しい肌をしっかりと保管する。
そして、
両手には、六尺超の薙刀が武装。刃長は一尺九分五寸。
換装を終え、遊泳していた我が身を一息に地上へと反転させる。
龍を模した死棘の一撃が、戦火の息吹を裂空する。
あわや巨大な武士に斬り裂かれる寸前の男性に、その白き刺客は躍動した。
大太刀を振り被った禍津に脇から喰らいつく純白の捕食者。地上を瞬く間に駆け抜け、全身を捻じるように旋回。
斬り払いざま、煤の巨躯を彼方へと薙ぎ払い、岩壁に埋没させて宙を返る。
その天使は再び、襲われていた男性の目前へと姿を現した。
「……み、——こ?」
「動けるのなら走りなさい! 足止めは……無意味みたいだから……」
瓦礫の山から
不規則に削られた肉体が、呼吸するように復元する。
「……遠星さん達があれに苦戦している限り、仕留める事は出来ないようね……」
その様子は、シーキャンドルの展望台から望遠鏡にて確認出来た。
「大崎さん……神子だったんだ……」
「どうして今まで黙ってたの……?」
人々の願いを背負うべく希望が、今までその素性を隠し続けていた事には、当然ながら周囲の疑問をかった。
しかし——。
「彼女の真意は分からないけど、ひとまずこれで、窮地は脱したようだね。あとは、遠星さんと月岡さん次第だ……」
傍観者たちの視線が、御三家の内の二人に集束する。
このまま陸地を観ていても決着は一向に着かない。その元凶となっている大海の母神を仕留めない限りは——。
——甘く可憐な歌声が、戦火の渦に旋律を刻む。
『 元つ月 さても沸きたる 赤き恋 黒き衣に 雪積もれども 』
顕現するは、千を越える
甲冑の音が少女の指揮に合わせて合唱する。
『 月詠神歌一番 泰月御忌・未恋の山伏——‼︎ 』
扇を前線へと
出来る限り散り散りに——。
奴からすれば、獲物に集る
だが、その陰に、白き史上を潜伏させたのならば——。
群れを成す有象無象。その隊列に紛れ込む一頭の参列者。
今、白馬の嬢王が、相模の海上を疾走する。
例え奴の視界に入ったとしても、ソレが彼女のスピードを捉えることは不可能。
如何なる達人でさえも、その白馬の走りは残像にしか視えない。
至高の速度。
究極の真空。
海面を踏む脚は捉えどころのない虚像を奔らせる。
その一挙手一投足が、獲物を仕留める牙となる。
死角から駆け抜ける一閃に、禍津の脚部が鮮血を飛ばす。
攻撃に気づいた時には、既にその刺客の姿は虚ろの光子——。
駆けるたび加速する純白のステイヤー。
地上を——海を渡りながらも、その疾走は天翔ける武人に近い。
あまりの速度に、もはやたなびくことを忘れた短剣の鎖。真っ直ぐな尾を
音は凪ぎ、姿は歪み、残像さえ霞ませる白き弾丸。
皮膚を裂き、肉を断ち、骨を抉る。
正体不明の弾頭が、禍津の身体を四方八方から射抜いた。
一筋の光線だけが、唯一視認可能な僅かな軌跡。
流星が虚空を翔け、幾度となく、その巨体に爪痕を刻む。
噴出する血の波がまた新たな障壁となり、白馬の姿を陰る。
女の顔が、次第に憤怒へと変わる。
豹変する母神。それは災害となって、いつだって私達を蝕んできた。明依も、日音も、ただ一つそれだけが盲点だった。
張り裂けるほどの断末魔——否、これは咆哮か——。
凄まじい音響が大気を裂き、水面を荒立てた次の瞬間、海の怒りが体現する。
「な——ッ⁈」
地表を包むはずの恩恵が、天に昇り聳え立つ。
「明依ちゃん——ッ‼︎」
しかし、その声は母の怒号に掻き消される。
陸地目掛けて鉾を向ける強大な海水の壁。
「——信じるって決めたから……日音は、いま日音のすべきことを果たす——ッ‼︎」
親愛なる家族を案ずる必要などない。
危惧していたのならば、初めからこの手段は講じていない。
「日音の全部……託された
『 旅立てど 胸に灯るは ブラシの木 時ぞ変われど さても
三度顕現する、大輪の盾。
『 月詠神歌三番 桜花悲恋城——‼︎ 』
開花する巨大な花弁。
だがこれでは足りない。
災害の波紋を防ぎきるにはもっと、もっと——。
『 長き
大輪は次第に拡散し、由比ヶ浜全てを囲む城壁となる。
『 月詠神歌三番・第二節 満開千本桜——ッ‼︎ 』
際限なく、各地に展開する大いなる花の恩恵。
打ち付ける水害。
奈落へ沈みこむ花の
あまりの重さに、日音の扇子に亀裂が奔る。
更に重なる海獣の怒号。
全ての花々を散らさんと、紺青の岩舟が弾丸となって降りそそいだ。
花上で弾け、夜桜にも劣らぬほどの花火を咲かせる仮想の榴弾。
軋む大輪。
「——ッゔァ——ッアァ——ッ‼︎」
飛沫を上げ、跳ね回る真っ赤な潮。
それでもなお、彼女が扇を降ろすことはない。
深く根を張る大樹の如く、その場に鎮座し続けた。——全てを信じて、ただ無垢に。
やがて力を使い果たしたか——。禍津の攻撃が一時的に停止する。
凄まじい津波によって大気に張り詰めた、高密度、高濃度な霧の檻。
しかし、そんなものは地表を駆ける白馬の神子には急造の
純正なる白き嬢王が、
渦巻く虚空——。
海上に聳える禍津の更に上空から、水浸しの毛並みが重くはためいた。
いつからか禍津の鎖骨に着弾していた、一振りの杭。
可視化する鎖。
伸縮する手綱。
叫喚する女神。
歪な左腕が、神速の嬢王に呼応し
分厚い
反撃など承知の上。
俯瞰する光景は、牙を剥く
「———————‼︎」
——想定内。
むしろ、その迎撃を待っていた。
突き刺していた一振りが、白馬の手物へと返還される。
刹那、空を喰らう
不安定な路面を、されど鮮やかに走り抜ける白きステイヤー。
輪切りにされた魔獣から、濁った血飛沫が遅れて噴き出す。
飛び散った朱に一面を染めながらも、清き白馬は間髪を入れず——。
一際鮮やかな真紅を眩く発光させる。
筋力の微調整に、体幹が急制動を図る。
跳躍した脚は海面を弾み、異形の空白に疾走した。
——背後からの刺突。
粉砕する禍津の両眼。誘われる暗黒。
過ぎ去った白翼は旋回し、この深い霧で優麗に舞い踊る。
真っ白な羽毛が散華し、鋼の軌跡を息吹く。
途端、聳え立っていた巨体が、突如として沈み込んだ。
脚線の
海か陸か——定かではないが、地を這う獣の分際で表を上げるなど不敬極まりない。
せめて命終える一瞬だけでも、奈落の闇であれ——。
伏せ込む巨躯の最中——底無しの加速を続けていた白馬が急停止する。
海流に背く白亜の
炎上する獅子の眼孔。依然その真紅は、落下する巨体の刹那を仰ぐ。
あわや下敷きになる寸前。
だが、そこに屈んでいたモノは既に残像。
今や地を踏む白馬は、
底知れぬ体力に息一つとして切れていない。
それどころか、今はただ、天海の狭間にいる我が身に高揚さえする。
白く咆える鋼の両翼。雄渾とはためき、焼けつく陽射しに逆光する。
禍津の
天を踏み、真空を駆け抜ける。
一息にも満たない刹那の滑空。
反転する意識。
逆行する感覚。
爪先に集中させていた全てが、瞬く間もなく翻る。
先鋭化する天馬の鉤爪。
撃ち込まれる純白。
水平を駆け抜け、
削り取るは母神の
大海を統べるはずの母が海溝の底へと叩き落される。
再び跳ね上がる津波と混血。
波は浅瀬に打ち付け、次第に凪ぐ。
流石の明依も、津波に
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