第13話 別れ前の憩い
——非常に風情のある鹿脅しが爽やかな音色を立てる。
入浴時。宿舎に居る時くらいは晴葵たちと一緒に居ようと、明依は露天風呂を堪能した。
真っ白な湯気が立ち込める中、石垣に囲まれた熱湯へと足を入れる。
「——江ノ島水族館、あの六メートルくらいあるデッカイ水槽には度肝を抜かれたよなあ」
「エイやアンコウなどの大型水中動物を何不自由なく泳がせる為には、やはりあれだけの大きさが必要なのでしょう」
身体の芯にまで浸透していく
淡い群青に満たされた空間で、あれは
「なんかさ、あれ見てると、魚が空を飛んでいるような気さえしてくるよな!」
晴葵にとってはかなりの衝撃だったらしい。
一方明依は、落ち着いた様子を頑なに崩さない。
「大げさよ。……まったく、ハルはいつも表現が仰々しいんだから」
「そんな事ないって。あれはいつか是非、海の中で直接拝みたいよ」
「潜水士にでもなるつもり?」
「いやいや、いつか一度でいいからダイビングしたいよなって話」
「……日音も、ダイビング……してみたいな……。クラゲさん、すっごく綺麗だったし……」
クラゲ……クラゲかぁ~。
「日音ちゃん、クラゲは深海魚だから、ダイビングじゃとても拝めないんじゃないかな……」
残念そうに
信じられないものを見るような、酷く青ざめた顔。
なんか切なくなってくる……。
「で、でも、潜水艦でなら観ることが出来るわ! きっと!」
「観光で潜水艦なんてあるの?」
「あるわよ! 海中観光の巡覧に参加すれば日音ちゃんの夢もきっと叶うわ!」
その言葉に希望を持ってくれたのか、真珠の光沢は、本来の姿を取り戻す。
「うん! じゃあいつか、三人で行こうね! 日音、すっごく楽しみ!」
「そうね、いつかきっと——」
見上げれば下弦の月が細い弧を描き、南東の空にて薄気味悪く微笑んでいた。
どこか
夕食は行動班に固まって取るため、晴葵や日音とは再び離れる羽目になってしまう。
「——ハァ~」
あからさまに気怠げな溜息を吐く明依。
覇気のない相貌で、目の前のカレーに手をつける。
「………遠星さん、そんな顔されると……何だかこっちが申し訳なくなるから……その、やめてほしいのだけれど……」
大崎の指摘はごもっともである。
しかし、それでも家族と離れ離れになるということがこれほどまでに心を削るとは思わなかった。——いや、一度入浴時に再開してしまったことが傷を深くしたのかもしれない。
「そうだよ。私たちに失礼だよ?」
土方も呆れたように口を尖らせた。
「ごめんなさい……今はそっとしておいて」
彼女の、度を越えたあまりの消沈ぶりに、班員は互いの視線を合わせて肩をすくめる。
結局、彼らではどうする事も出来ないので、大人しく放置しておくことにした。
食べ終わった食器を片付けて、自由時間を満喫する。
その間、明依はいつの間にか底知れぬ眠りへと落ちてしまっていた。その無防備な姿に目を光らせる
——夢を見ていた。
瓦屋根の家屋が規則的に並び、石垣の塀が道幅を囲う。——城下町だ。
明確な暦までは流石に分からないが、全体的な街並みとしては江戸時代を思わせる。
今となっては馴染みのなく、面影すら残っていないその
淀みない真紅の髪が風に揺られてなびく。
太陽を思わせる緋色の瞳は、照りつける陽光を霞ませるほどに煌びやかだった。
白く精緻な肌は鮮やかに艶めき、長い睫毛と紅を引かずとも瑞々しい唇が淑やかに潤う。
紛れもない美少女だ。
しかしこの容姿、何処かで——。
「——じょうさん! 遠星さん!」
「………ん………んん、……」
誰かに体を揺さぶられ、明依の意識が目を覚ました。
「遠星さん、そろそろ班長会議の時間でしょ? 遅れるとマズいんじゃない?」
律儀にも起こしてくれたのは大崎だった。
手にはイヤホンの刺さった携帯端末が握られており、片耳が彼女の耳に着いたままだ。
どうやら、時間になるまで明依の傍に居てくれたらしい。
この誰も居ない食堂で、たった一人——。
「……ん……大崎さん……ありがとう……。そうね、そろそろ行かないと……」
まだ微かに残る眠気を殺し、席を立つ明依。
去り際、大崎は何やら、意味深な忠告を吐き捨てて行く。
「あと、行く前に顔……洗った方がいいわよ」
「………え?」
寝起きだから洗っとけ——という事だろうか。
それほど長い時間は寝ていないし、大丈夫ではないだろうか。——などといった妄想は、鏡を見た瞬間に祓われた。
「な、な、ななな——ッ‼︎ なんじゃコリャアアアアアアァァァァァァァァッッ————‼︎」
鏡面に写る道化師に、耳をつん裂くような甲高い奇声が高らかに叫喚した。
右眼周辺が真っ赤に塗られ、そこから顔全体へ伸びる朱色の放射線。
——
それに、これはいわゆる〝落書き〟と呼ばれる物だろう。
寝ている隙をいい事に、一体どこの誰が——否、こんな物を描くのは一人しか居ない。
朝陽家時期当主の赤い小娘。
その
——班長を除いた他の生徒達は、着々と消灯の準備を進めていた。
荷物を片付け、布団を敷き、誰がどの位置で寝るのかなどを話し合う。——が、そんなものはとうに終わっている。
今は皆、トランプやらUNOやらで暇を潰していた。
——そう、暇なのだ。
常に動いていないと気が済まないような、日頃落ち着かない者からしたら、それがどれだけ苦痛であろうか。
そうして今、争いの火蓋が切られる。
「あぁ〜ヒマぁ〜‼︎ 退屈ぅ〜っ‼︎ このままなんもせずに寝るの何か勿体無くね?」
「気持ちは分かるけど……妙な事してると先生に怒られるよ?」
「その先生とやらも、クソ真面目な班長さんも、今は会議中で居ないんだぜ?」
「あさひ……あなたまさか……」
「やるしかないでしょ枕投げっ‼︎」
晴葵が手元にあった枕を握ったその直後、禍々しい
「あァァアアァァアァ——さアアァァアァ——ひイィイイィィィ——ッッ‼︎」
さながら般若のような——いや、これはもはや真蛇の領域すら遥かに凌駕するほどの、邪神とさえ言えよう悪鬼だ。
律儀にも、塗りたくられた落書きは落としてから来たようだ。
あまりの悍ましさに怯え始める他生徒達。
そして、その邪神は足元に転がっていた枕をおもむろに掴み取ると、——放った。
疾風にも勝る豪速球。
第三宇宙速度にすら匹敵するであろう弾丸を、しかし晴葵はものともせずに蹴り返した。
「ぜァッ‼︎」
同時に穿たれる隠し球。
蹴り返した飛球が障壁となり、第二の刃が邪神を襲う。
しかし——。
天馬を司る神子にとって、そのお粗末な速度は停止に等しい。
撃ち出されたその悉くを真っ向から掴み取り、畳を踏み抜く。
「マジか——ッ‼︎」
皆も気づいている。
この女、僅かながらに神子の力を行使している事に——。
陰湿な瘴気を吐き出しながら虚空を翔けるそれは、さながら猛り狂った妖魔の如し。
瞬き一度にも満たない刹那、残像を振って晴葵の懐に躍動した。
ゼロ距離から、ふかふかの枕を無遠慮に叩き込む。
対象の顔面で峻烈な回転を見せるその様は、さながら〝
徳島県民の特権とも言える自然の芸術が、この鎌倉の地で再現される。
あまりの威力に大きく仰け反った晴葵。
だがその最中、密かに紛れて、己が手の内に弾丸を装填する。
倒れ込む寸前の身体を右脚で踏ん張り、捻った上半身を勢いよく弾ませる。
「まだまだアァ——ッ‼︎」
結局、二人の死闘はしばらく続き、班長会議をすっぽかした明依はこっぴどく叱られ、大層賑やかに騒ぎ立てていた晴葵もまた、説教の餌食となった。
気がつけば、時計の短針は十一を回っていた。
三クラスの担任に加え、引率していた校長からも直々な指導を頂いた。
長い長い説教の果て、二人は、旅館のフロントにある客間に腰掛け、夜の静けさに頭を冷やしていた。
管理人も寝静まり、必要最低限の電灯だけが、この閑寂な空間を微かに照らしている。
風情溢れる
しかし、それも今の二人にはただの背景に過ぎない。
秒針の寂れた音だけが薄暗い闇を打つ。
真っ暗な廊下から、凍える息吹が吹き抜ける。
季節外れの冷風を背中に感じ、特に何を考えるでもなく秒針の音を聴き続ける。
すると、突拍子もなく晴葵が立ち上がった。
「……明依、何か飲むか? 謝礼に奢るぞ。何がいい? やっぱ緑茶?」
「え、あ、うん……ありがとう晴葵」
傍らで場違いな光を灯していた自販機が氷解した氷河のように動く。
明依の緑茶と、晴葵は
「ほい」
「ありがと」
先刻までの激昂が虚構であったかのような静けさ。
あまりにも閑散としているが、不思議と圧迫感はない。
〝家族〟としての感覚が根強く馴染み、その親近感から、お互い遠慮し合う習慣を無くしたのだろう。
今まで三人が離れたことなど、一度たりともない。
けれど、明日だけはその楽園も一時的とは言え崩れてしまう。それがどれほどの不安になろうか。
明依は、蓋の閉じた緑茶へ漠然と心のしこりを吐いた。
「……明日は、日音ちゃんも晴葵も、別行動ね……。今までこんな事無かったのに……。何だか少し、不思議な気持ちだわ」
「まぁ~な~。けど、どうせ鶴岡は行くんだろ?」
「え、ええ、もちろん……」
「そん時に会えるんだから、心配すんなって! それに宿舎に戻れば、またいつも通りの日常だろ? 高々数時間……オレらの五年間からすりゃ、大した事じゃないって」
「……そうね。そうよね! ごめんなさい……少し暗い話をしたわ……」
「……………」
今一釈然とせず、正体不明の苛立ちに悩まされた晴葵。重い腰を上げ、買ったばかりの蜜柑ジュースを一息に平らげた。
「ぶはあァーっ‼︎」
肺の奥深くに沈殿した空気を爽快に吐き出し、
「とりあえず、今日はもう寝ようぜ! 明日は朝食取ってすぐ出発だし、オレ達のことで他の奴らに迷惑かけるわけにも行かねぇからな! シャンとしろ、遠星明依‼︎」
雄渾にはためく真紅の髪。
就寝前の降ろされた髪は、もう何度も見ているはずなのに、今はどこか
「ええ、そうね。もっとちゃんとしなくちゃ……」
明依も腰を上げ、力強い笑みで晴葵に応える。
「じゃあ部屋戻ろうぜ。もうみんな寝てるだろうから、起こさないようにそぉ~っとな」
真っ赤な髪が目の前で
明依の目は導かれるように、たなびいた赤毛の延長線上を写した。
それは、何処にでもあるような何の変哲もない
悠然と美しく咲く淡紫色の舌状花——。
妙な既視感。
明依の記憶が再起するのに、その一瞬は一秒にも満たなかった。
——ある春の日。道行く途中で目にした可憐な花。
日陰を好むそれは、運悪くも一輪だけが日向に焼かれ枯れていた。
明依はその後に、あの花の名前を知ることになる。
——〝ミヤコワスレ〟。
瞬間、先の無い真っ暗な彼方へと向かう晴葵の右手を、明依は衝動的に掴み取った。
「え、明依?」
困惑する彼女を差し置いて、明依は半ば本能的に、その小さな手を握り続ける。
決して離れて仕舞わぬよう、繋ぎ止めるように——。
「……めい?」
長い沈黙のあと、ようやく明依の声が乾いた音を鳴らした。
「一つ、約束して。どんな事になっても、私や日音ちゃんが晴葵を呼んだら、すぐ帰ってくるって。例え、他のすべてを
握る手に、さらに力を込める。
明依の目は、前方に延々と続く暗闇を拒み、ただ、いま確かに感じる太陽の温度だけを
「明依……?」
理解出来ないのも無理はない。
何せ明依自身にも、そこに正しい根拠は持てていない。
経験の浅い十二歳児の勘には、正当性も信憑性もない。
けれど、だからと言って、この
冷たい手が、力みながらも小さく震える。
一向に伝熱することのない体温。
ただ一人歩きを続けるお互いの体温が結び合うことは、等々無かった。
晴葵の暖気が、凍える空気を白く透き通る。
「……そうだな。どんな時も、オレは二人だけの味方だ。例え神子として十を
「……うん、ありがと。約束よ? 私達との一生の運命だからね?」
「ああ……」
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