第44話A 火の女
中に入っても暫くは落ち着いた様相が続いていた。
私たちは歩幅を落とし、これを好機と見て情報の共有を開始する。
「情報共有がまだだったよね。彼から聞いたこと、教えてもらえる?」
「ええ。端的に言うと、精霊裁定国のこと、二人の精霊のこと、彼らが契約した人間のことを聞きました」
契約。
私がサラマンダーと協力を決意した時にも、彼女は同じようなことを言った。
——そうだ、そもそも私は精霊というものを解っていない。
「精霊は人間と結びつくの?」
「はい。少なくとも、精霊という存在が脆弱になったこの時代においては。シェーン・ヴェルトにおける精霊史に関しては、後ほどロックの口から聞いてください。それよりも、今語るべきは」
ファルセットは洞窟の奥深くに目をやって、憐憫と怒りを孕んだ様子で説明を続けた。
「ここに溜まったあらゆる呪いは、魔王の軍勢によって殺められた人々のもの。……しかしその殆どは、二人の精霊によるものだと聞きます」
ウンディーネと対峙した時に垣間見た悪性。それが誰のものかはともかく、ウンディーネという肉体を通じて積み上げられたものであることは想像がついていた。
それでも、恐怖と怒りを覚えずにはいられない。
「あの影は、一つにつき一つの命じゃなかったってこと?」
魔王は人々から数多くのものを奪ってきた。私たちの知らないところで、こうして、沢山の人だって。
「その上で世界の防壁にされている。斯様な事が許される世界があろうとは……!」
「——防壁って」
此処にはいない誰かに向けた強い怒号の中にあった言葉を私は聞き逃さなかった。
激しく乱れた呼吸を整えた後、ファルセットは躊躇いがちに、その事実を口にした。
「実質的な、という話ですが。まず、国を囲む山々と霧は外敵を阻むのに最適な役割を果たしている。しかし私たちのように魔法が使えれば突破自体は容易いもの。そこで奴らは、生者を喰らうための呪いを置いたのです。この国を救うというのなら、山に眠る全てを周って祓わねばならぬでしょう。斯様な事を生身で行えば、精神が持ちません」
心臓が烈しく痛む。
顔が物凄く熱い。私はきっと、友達に見せちゃいけない顔をしている。
「そんなのって、さ。じゃあ何、今向こう側にいる呪いの何倍もの呪いが、この国に蔓延っているってことなの」
言葉は返ってこない。それが最たる同意だった。
これだけの人が救われなかった。皆が皆、私には想像もつかない壮絶な最後を、あの子のように迎えたのだろう。
「……こんな国」
「涼華」
私が言葉を続ける前に、ファルセットが意識を元に戻す。
「それ以上はいけない。……我々に彼らを裁定する権利など無いのですから」
外では壮絶な雨が泣き叫ぶ。内では狂気に満ち溢れた横殴りの悲鳴が私の耳を抜けていく。
眼前の地獄も救わずして、誰が世界を救えるのか。
途端に腹部はひどく疼いた。
「ごめん。ファルセット」
私が思考したその瞬間、体の奥底で炎が燃え上がる。同じような怒りを味わっているに違いない私の契約者に、心の内で合図を送った。
「呪い全てが祓えなくても、この人たちは助けられるんだよね」
「ええ、可能かと。ですが涼華、あれは生命を簡単に壊します。打ち勝つ覚悟はあるのですか?」
「……覚悟とか、そんな大仰なこと言えないけど。私の手で誰か救えるんだったら、救わなくちゃ」
「涼華、貴方は」
ファルセットの表情は想像に難くない。
ただ、彼女が魔道具を使用する音は同意を示していた。
「私の近くにいれば、手が届くようになりますから。生身で触れぬよう気をつけて」
言葉の意味もよく知らずに、私は黙って頷いた。
ねじ切れそうな痛みを堪え、私たちは闇の中へと身を投じる。
直後、金切り声が私に向いた。
「斬る」
ファルセットが前に出るのと同時、私は小さく
『
『
炎が辺りで巻き起こり、迫る真っ黒な手を振り払う。すると呼応するように風が巻き起こり、前に出たファルセットが更に呪いを押し退けた。
「前に出ましょう。本懐の封印先は恐らく奥です!」
私は全速力でファルセットに追いつくと、またすぐに
呪いは奥へと逃れたかと思いきや、再び魔の手となって迫り来る。合図と共にファルセットが敵を裂き、魔法の名を口遊む。連携を何度か繰り返しているうち、私たちの背後を呪いが覆った。
それは退路が断たれたということ。隣の彼女を見失わないよう注意して、私は先の見えない闇の中に足を止める。
腹部ではなく、頭が痛む。金切り声のせいだろうか。
『ケキャ、ケキャ、ケキャキャ』
「……夢の中の呪いとまるで一致しない。本当に同じだなんて」
「人間に色々あるのと同じでしょう。自分が自分でない存在が彼らなのですから、我々も触れれば気が狂う。体に来る不調も、体が此処にいるのを嫌がるためかと」
笑い声は反響し、反響した先で新たな笑い声を生み出す。
声は無数の巨大な手を作り出し、私たちを二重に取り囲んだ。
「ともかく抜け出そう。来たのは確か、私の方」
一点に大きな穴を開けてそこに飛び込み、目的の中心部に辿り着く。
そのためにアルビオンは不適。必要なのはそう、メリアの使う
「
頭が酷く痛む。何か、生物として直面してはならないものを直視しているような気分で、どうにも頭が回らない。この呪いを退かせられるだけの強力な炎が、イメージとして出てこない。
ファルセットに返す言葉にさえ困っていた時、私の内から、私のものでない声が響いた。
『体を貸せ』
あれから漸く、サラマンダーが口を開いた。
「……前みたいに言葉はいる?」
『不要。一秒目を瞑れ、それで事足りる』
「ッ、涼華!」
ファルセットが声を荒らげる。彼女にはもう、呪いの魔の手が届きかけていた。
あのような悪夢、友には絶対に見せられない。
決意と共に、私は意識を手放した。
魔の手は体を求めて標的を変える。誰にも守り得ない圏内に現れた、私の肉体という極上の依代——その入手のため、呪いの手は目にも止まらぬ速さで私の首を掴み上げた。
私の意識は体から離れて内側に戻った。
「……おい」
私でない意志が私の右腕を使って呪いの手を砕く。
黒に囲まれていた洞窟は、今や支配者の交代を示すようにただ明るい。
「誰に牙を剥いている。我が貴様らの接触をいつ許可した」
瞬間、魔の手は掌に口を生み出し、その牙で私を喰らおうと襲い来る。
真っ暗闇から生み出される手の口は、当に地獄と呼ぶべき様相。しかし彼女は、眉一つ動かさずに迫り来るそれらを焼き払った。
「
其の両脚が地を蹴った。
身体の傷は痛みの信号を謝絶して、代わりに全身を遍く炎の魔力が満たす。居合わせたファルセットさえも置き去りにして、サラマンダーは呪いの全てをただ一人で受け止めた。
視界は
私を取り囲む全てを煩瑣と見做し、サラマンダーは
無数の牙がサラマンダーに突き刺さる。即ち、私の体を無数の悪夢が貫いたということ。
だのに、体躯に傷は毫もない。
「喰らえるモノなら喰らうてみろ。千年死ねぬ悪夢など、我の燃料にもならぬ些事じゃ」
私に刺さるはずの白い牙は、煙を上げながら変色する。僅かな時間が過ぎた後、呪いは原初の炎に包まれて、悲鳴の一つも上げずに燃え尽きた。
「奥。まだ終わらぬか」
サラマンダーの炎によって、視界は元の洞窟へと戻る。何やら小さく呟いて、サラマンダーはファルセットに視線を送った。
「そこのエルフよ、何をぐずぐずしておる。之を幾ら払おうと奴らは消えぬ。先に進むぞ」
「……了解。その髪も瞳も、まさに燃え盛る炎ですね」
サラマンダーの気色が色混じる私を、ファルセットは驚き入る様子で見ていた。
また呪いが攻撃を仕掛けてくるかと思いきや、洞窟は静寂に包まれたままだった。
「奴ら、力を溜めているのでしょうか」
「だろうな。気を引き締めよ」
数分と経たぬうちに、私たちは呪いの収束帯へ辿り着く。
置かれていたのは一つの墓跡。視認できるほどに濃い紫の魔力が、墓石を囲むように渦巻いている。
特別感知に長けておらずとも、其処にいるだけでありありと感ぜられるほど冷たい魔力。
全身が総毛立つほどの呪詛に、ファルセットは戦慄した。
「恐れるでない。援護はしてやる、傷は負わせん。エルフよ、あの石を叩き割れ」
「あれを解き放てと仰るか。いいでしょう——但し、あの内の一つでも外に逃すことは認めません」
ファルセットの言葉に対し、サラマンダーはただ頷いた。
視界には彼女が剣を抜く姿が映し出される。光のない金属はやたらと重々しく、私が他に視線を外す暇などない。
石の片方が地面に落ちた。ファルセットは既に刀を振り終えており、直後——。
『Caaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!』
国に眠りし秘匿の厄災、その一つが目を覚ました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます