第43話A 全力の義務
次に目を覚ましたのは、夜が終わる間際のこと。
「……あ」
漸く声が出る。
相変わらず雨は降っており、辺りには重苦しい暗さが残っていた。窓の向こう側に見える僅かな光は、数少ない変化の一つと数えて差し支えないだろう。
もう少しで夜が終わるのは明白だった。
体には、眠りすぎだったのかな、と小さく独りごちるくらいの余裕がある。
ふと、体の中に暖かいものを感じる。これはきっとサラマンダーだろう。
重い体をなんとか起こし、私は周囲に視線を配る。
「ファルセット、いる?」
「涼華、目を覚ましたのですか。今行きますね」
階下より声が響いてくる。真横で名を呼んだのと同じ要領で、彼女は私の声を受け取ったらしい。
とたとたと階段を踏む軽い足音が耳に届く。
暗がりでも目立つ金色の瞳と、あれからすっかり赤いままの髪を携える少女が現れた。
「……おはよ。さっき、夢に出てきた」
私の言葉に対してファルセットは僅かな驚きを見せたが、私を安心させる為か、すぐに柔和な笑みへと切り替える。
「それは、とても嬉しいことです。……涼華。眠っていた間のこと、覚えておいでですか」
きっと夢の話、私を襲った呪いの事だろう。
嘘をつく必要もなし、私は同意を口にした。
「黒いものが、私に迫ってきたこと?」
ファルセットは首肯する。ランプの横にコップを置いて、ジュースですと付け加えた。
「初めに訪れた山に呪いが蔓延っていたのは覚えておいででしょう。あれに近しき悲鳴の類が、眠りにつく貴方の体を奪いに来たのです」
「何というか、想像通り。守ってくれたんだよね」
「約束ですから。しかし、夢の後半は我々ではありません。何か思い当たる節があるのですか?」
間違いなくサラマンダーのことだろう。
だが、サラマンダーはファルセットにとって、彼女の想う故郷を襲撃した存在であり、憎き土の精霊と、便宜上の種族は同じなのだ。
……それでも、私の中に彼女がいて、ファルセットを心から信頼している以上、言わないというのは二人への裏切りになる。
私は意を決して言葉を口にした。
「向こうでサラマンダーに会った。私が戻ってこれたのはサラマンダーが力を貸してくれたおかげで、今も彼女は私の中にいる」
告白に対して、ファルセットは驚きを見せたものの、それだけだった。
彼女の視線が雨の打ち付ける窓に向く。
私は視線をなぞって窓を見る。精霊が落とす生命の雫は、無機質なガラスの上を、地を這う蜥蜴のように滴っていく。
「……そうでしたか。私にとって精霊は敵対するものに違いない。しかし、貴方を助けてくれたのなら、私が彼女と敵対する必要もありません。ただ、感謝のみを貴方に」
サラマンダーから返事の兆候はない。
ただ、きっと悪い気分じゃないと思う。
甘い飲料を口にして、数分静かな時を過ごした後。
夜明けを眺めながら、ファルセットは話を切り出した。
「雨の国の終了まで残りわずか。明日の目的を定めておきましょう。傷の具合はどのくらいですか」
「サラマンダーのおかげかな、起きていられるくらいにはなったよ。次までには動く」
腹の傷はじゅくじゅくと痛むけれど、あの声を見捨ててきた以上、全力の義務は放棄できない。
その意を汲み取ってか否か、ファルセットは遠慮がちに頷いた。
「何にせよ、決戦は避けた方がいい。サラマンダーは何か?」
「……ウンディーネの心臓を突き、ノームの首を刎ねよ。この国の呪いを祓え。って、最後に」
サラマンダーが最後に残した台詞。前半の二つは身に覚えのないことだが、呪いに関してはたくさん覚えがある。
「なるほど。ウンディーネとノームに関しては、ロックに……ああ、この家の持ち主に聞けば分かるかと。呪いの方は、矢張りあの山でしょうか」
「次の夜、動くなら彼処だと思う」
国を囲む無数の霊峰。雨を浴びて鈍く光り、汚泥を街へと流す地獄。
あそこを救うことができれば、私はウンディーネのリベンジに専念できる。
全力の義務という矛を向ける先はあの山に違いなかった。
「ええ、次の行き先はあの山にしましょう……ですが涼華、その傷で動くのはいただけない。メリアに怒られますよ?」
「さっきに比べたら痛みは引いたし、寝れば立てるよ」
空になった腹部に手を添えつつ、声が震えないよう必死に堪えて口を開く。
見抜かれているだろうか。むろん見抜かれているだろうが、私はここで倒れちゃならない。
ファルセットはどこか呆れた様子で笑った後、暗闇の方へ歩いていってランプを点けた。灯りに照らされた先にはもう一つのベッドが並んでいる。
「万一のことがあれば直ぐに帰しますからね。……でも、以前のような回復力を期待していますよ」
ファルセットの纏う防具が木と接触して音を鳴らす。外の雨はやがて小さくなり、そこに光をもたらし始めた。
「この階は私たちが使って構わないそうです。次の雨まで目覚めることはないでしょうが、この家にいれば世界の法則に殺されることはありません。詳しくは明日、説明しますね」
私が適当に相槌を打つと、ファルセットは手元のランプを消した。おやすみと挨拶を一言交わした後、私はランプの元に置かれた一冊の手記に手を触れる。軽微な魔力がそこで動いた。今日の日記はきっと付けられたと思う。
ランプを消して毛布を直し、質素な天井に視線を向ける。意識が揺らいで微睡に誘われる中、今日の出来事が膨大な情報となって脳裏を過ぎった。
その時、心臓が軽く跳ねる。
体の内にいるもう一人の住人を感じて安堵を覚えたのか、私はそのまま眠りについた。
精霊裁定国、雨の国。二日目。
何事もなく、夢の欠片さえも見ず。腹部の激痛を必死に堪えながら、私は山を登っていた。
ファルセットの言うロックという男性は既にそこを離れていたらしく、挨拶は出来ぬまま家を離れた。
サラマンダーの援護が無ければ、急傾斜と降り頻る雨を乗り越えるのは困難だっただろう。時々ぬかるみに足を止めつつも、私は最寄りの山の、魔力が最も濃い場所へと向かっていた。
「涼華、限界ならば負ぶります。これだけ風が強いと、探知は上手くいくものではありませんが……っ、もう少しの辛抱です。傾斜も落ち着くはずですよ」
強風と大雨でびしょ濡れになって悲鳴を上げる目的地へのメモを握りしめて、ファルセットは私の肩に手を回した。
「怪我したのは昨日だし、もう治ってる……! もう少しならっ、歩くから」
一歩、また一歩と踏み出すたびに、次の一歩に乗る重みがどんどん増えていく。それでも前に進む以外の手段というのは考えられなくて、私はまた我武者羅に頼っていた。
ファルセットに歩幅を合わせ、私は目的の場へと必死に進む。
ファルセットの読み通りに斜面が落ち着いたのは、それからすぐのことだった。
平らかな大地が落ち着いて、私たちは洞窟を目の当たりにする。微かだが、奥からはどことなく重苦しい魔力が漂ってくる……恐らく、この先に夢で見た数々の呪いが控えている。
「涼華伏せて!」
真横のファルセットが前に飛び出し、声を荒らげたのはその時だった。
私が咄嗟に屈んだ直後、真っ黒な火花が眼前で散る。いつの間にかファルセットは剣を抜いていて、彼女が弾き飛ばした何かがこちらへと吹き飛んだようだった。
「っ、一体何!?」
「昨晩の夢そのものでしょう。まだ懲りていないようだ……下がっていてください」
『キキャキャキャキャキャ!』
けたたましい笑い声が反響する。土砂降りの雨に勢いを任せて、呪いは過去かつてないほどの勢いで迫ってきた。
私が半歩退くのに合わせて、ファルセットは凄まじい勢いで剣を三度振るう。暴風を自らの力にしてみせたような高速っぷりで呪いは切り裂かれ、形さえも保てずに消え去っていく。
「この呪いはただの魔法で消し飛ばせない。涼華よ、どうか防御に専念を」
ファルセットの鬼気迫る表情と凄まじい剣捌きが、そこに冗談のないことを如実に指し示している。
しかし、私は守られるために此処にいるのではない。
「……要は、本懐が潰せればいいんだよね。上から飛んで前に向かう。ファルセット、正面突破は任せるよ」
「なっ、そんな無茶を」
ファルセットの言葉も聞かずに、私は手荷物を真上へと放り投げる。
幾らかの呪いはそちらへと迫るが、跳んだ彼らよりも私の飛翔の方が遥かに速かった。
私は
存外体というものは言うことを聞いてくれるらしく、私の魔法は体をすぐに洞窟へと運んでくれた。
「涼ッ、華! 傷が開きます、そんなに早く飛ばないで!」
私が着地すると同時、
「大丈夫だよ、これくらい。……さ、入ろう。あんまり時間はかけられない」
そう口にして、私はまた洞窟に視線を送った。
降りしきる豪雨の一部が流れ、水が天井より滴り落ち、いつ崩れ去ろうともおかしくないような、とても脆い作りをしている。
「わかりました。行きましょう」
そこに精霊裁定国の悪が眠ることを、今の私はまだ知らない。
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