第42話A 飛べ

「いかにも、我こそはサラマンダー。先の戦いでは無様な姿を晒したが……その縁か。小童よ、こうして影を捕まえられたのは」

 仇敵が居た。

 かつて私が対峙した時、は女性の肉体を持ち、体を岩石のように硬い鱗に包まれた蜥蜴に乗っていた。

 しかし今、サラマンダーに姿形はない。

 他の影と大差ない弱々しき像。それでいて唯一赤色を伴っている。その様はまるで、陽炎のような——此処に引き摺り込まれた私同様、息を吹きかければ消えてしまいそうな脆さを感じさせた。ただ一点他と違うのは、その影が橙を帯びた赤色であるということか。

 迷いは衝撃によって一時的に塗り潰される。上手く動かない声帯を私は無理に震わせた。

「何が、目的」

 彼女は嗤った。直感的に、そう感じた。

「我は既に死しておる。死者に目的も糞もあるものか。精霊裁定国で発生した精霊である以上、死すればここに取り込まれる。ただそれだけの話よ」

 サラマンダーの赤い陽炎はゆらゆらと揺らめいて、辺りに漂う呪いを寄せ付けない。

「……嗤いに来たの」

 彼女は嗤う。私ではなく、私の問いを。

「答えは否。敗北を悟りながら挑む勇気は見ていて気持ちがよい。とてもな」

 会話の隙に私を取り込もうと、影は少しずつ距離を縮めていた。迫る魔の手を先んじて察したサラマンダーは、ほんの僅かな間、自らを炎へと作り替えて影を押し退けた。

 自分たち以外の全ては邪魔であると言わんばかりに、他との距離を彼女は作り上げた。

 その口から語られるのは、私の予想に近しい提案。

「我に貴様の体を貸せ。ここより抜け出したくば、方法はそれしかない」

「冗談は辞めて。貴方には渡せない。体を持った貴方がやることなんて目に見えてる」

 私の肉体がボロボロになっていたとしても、サラマンダーならばあの手この手で復活して、多くの人を傷つけるだろう。そんな者に体を貸すくらいなら、自らの闇に堕ちる方が幾分かましだ。

 しかし、火の精霊の反応は私が思っていたものと随分違った。陽炎を焚き火のように激しく輝かせて、呆れた声でこちらに語りかけてくる。

「我をウンディーネらと一緒にするな。敗北してまで生に縋り付くほどの未練はない」

「待って。何でウンディーネが出てくるの」

 一度意思を持てば饒舌になって、私の集中はサラマンダーの言葉へと向いていく。

 彼女は自らの煙を軽快に動かして、立ち尽くす私の体を巡りながら提案してきた。

「知りたくばすぐに教えてやる。……この場にいる間、我に体を貸せばだが」

 あくまで条件付きということらしい。

 こういう時、メリアなら断るだろうか。少なくとも私は、何か上手く言いくるめられた気がして乗り気になれなかった。だってそうだ——目の前には仇敵がいて、後ろには人生を捨てる場所があるだけの話なのだから。どっちに進むのも、きっと私の本心じゃない。

 私の心中を察したかのように、サラマンダーは煙を凝縮させて形を作る。ぼんやりと、そこにかつての像が現れた。

「我をどう思おうと構わぬわ。。じゃが、我の横暴を止めた他ならぬ貴様が、幼児のようにそこで遊ぶのだけは我の矜持が絶対に許さぬ。……さっさとせぬか。くだらん迷いで諦めるくらいなら、我が今度こそ貴様を殺す」

 サラマンダーの声色に嘘は見られなかった。

 あまりに横暴で、あまりに愚直だった。

 何か心を動かすものを感じて、知らず識らずのうちに私は口を開いていた。

「貴方、何が目的なの」

「貴様相手に目的などない。ただ清算を済ませるついでに過ぎぬ。……そう、重ね過ぎた、罪の贖いだ」

 最後、小さく発せられた言葉を私は聞き逃さなかった。

 彼女の根底にある純真さがその瞬間に現れて、私の心を打ち抜いた。

 本心は知らないけれど、最初から、彼女はきっと。

「サラマンダー」

 だから、敢えて口にする。

 ——私はとても未熟だ。まだまだ一人じゃ迷ってしまうし、こうでもされなきゃ決心できなかった。

 でも、頼れる相手がここに現れた。

「貴方、前に石ころ一つを注視する者がどこにいるって言ったよね」

「……ああ、言ったな」

 曖昧だった私という存在は、溢れ出す言のたまによってハッキリと作られていく。

 対する向こうも、私という拠り所を見つけてか、その像を確実なものにさせた。

「私、あの言葉は認めない。石ころだって誰かの目に留まることもある。だから全部が拾えなくても、あるべき場所に戻すくらいのお節介は焼くよ。それでも構わないなら好きにして。いつまでも」

「その言葉、契約か。好きにさせてもらうとしよう。風晴涼華、アルビオンの子よ」

 そこにかつての淀みはない。

 私は世界の闇を祓うため。サラマンダーは、誰かに向けたあらゆる義理を果たすため。

 目的は違えど、かつて殺し合った二つの魔力は、あらゆるわだかまりも無しにして結びついた。

「あ——」

 炎が私を形作る。体から溢れる眩い光は、辺りに蔓延る呪いを次々に鎮めた。

 同時、依代を奪われた無数の呪詛がありとあらゆる手で私を奪取しようと襲い来る。

『おねえちゃん、行かないで』

 作り出された炎が彼らの闇を祓う中、私は最後の砦と向き合った。あの少女によく似た誰かの重い無念が、泣き出しそうな表情で其処にいる。

 私は小さく別れを告げた。

「ごめんね。ここに止まるのは駄目みたい」

 サラマンダーの意思が私の体に結びつく。

 消えかかっていた炎は精霊という蝋燭を得て、力強く煌びやかに燃え盛る。無限の勇気は火の精霊。重い頭を上に向ければ、呆然と立ち尽くすは元の影に戻ってしまった。

「案ずるな。無限の別れの後には、ただ一度の再会がある。それを待て」

 私は怨敵の手を取った。それが、それだけが、前に進むための手段だったから。

 体は呼びかける。私の頭に、契約を示す言霊コードを生成する。

「唱えよ。故に飛べ。ただ一つの小さき言葉が、貴様をこの領域の破壊者にする」

 サラマンダーの言葉に倣って、私はゆっくりと口を開く。

 まだ自分の力で前を向くには至らないけれど——まだ、我武者羅は使ってもいいらしい。


今は祈る英雄の炎イデアル・ガイスト・ヴルカーン


 アルビオンを詠唱するのと同じように、私の体が勢いよく変化する。あれとはまた違う、どこか不思議で力強く、荒々しい感覚が私を包んだ。

 それはきっと、傍から見れば形にならない脆弱なもの。しかし、崩れかけのピースは奇跡的な程に噛み合い、この一瞬、私たちの間でのみ完全な魔法として成立した。

 私は弱さを忘れていた。

「……飛ぶよ」

 既にサラマンダーの意識は私に譲渡された。故に、私がいくら声を掛けようと返事が返ってくる道理はない。それでも声を掛けたのは、そうせずにはいられなかったからだろう。

 火が真っ暗な世界を灯す。闇に引き摺り込まれたのだから、我武者羅に上へと行けばこの地獄より抜け出すことも容易いはずだ。

 身体中に目一杯の力を込めて、私は勢いよく飛び上がった。


 炎が体から溢れていく。ロケットのように力強く、世界の蓋を目指して火の龍種は飛翔する。

 ファルセットも先の男性も、既にその闇の中にはいなかった。辺りを覆うのは闇だけで、故に私は躊躇わずに振り払う。

 

『嫌だ、行かないで、——イカセナイ』


 星の蓋に届く頃、ついに影も動き出した。

 言葉で止められぬと悟った彼らは無数の手を形造り、私の羽を毟ろうと伸ばしてくる。

「サラマンダー、お願い」

 私に残された余力は、やはり空を目指して飛んでいくことだけ。迫る手を払い除けられるだけの魔力は残っていない。

 契約者への頼みを初めて口にする。直後、サラマンダーは声に応えるように無数の炎を撒き散らした。持ち合わせるは火の魔法、互いに一度戦い抜いた間柄。相性は上々、私たちはたった一つの失敗も犯さない。

「天の蓋を開けて!」

 私の言葉に合わせるように、サラマンダーは炎で蓋を押し開ける。

 開かれた蓋の向こうには、紛うことなき無意識、夢が広がっている。


 魔法が融けて、自らの夢へと戻ってきたところで、私はまたサラマンダーの顔を見た。

 満足そうな様子だった。でも、まだ消える意思は見られなかった。


「ウンディーネらは我と切っても切れぬ関係だった。……これ以降を聞きたくば、まずはこの国の呪いを祓え。風晴涼華、アルビオンの子よ。ウンディーネの心臓を突き、ノームの首を刎ねよ。そのためならば手を貸そう」


 返事を求めない言葉だった。私はただ黙って頷き、外から溢れ出す光に身を預ける。

 光に囲まれた私の意識はまた光に包まれて、脆い私の存在を体の内に保存する。

 私はまた、眠りについた。

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