第41話A 夢現

 ◆

 

 剣戟が空気を揺らす。

 私であって私ではない何か——誰かの夢を私が見ているのだろう。

 視界は雨の人混みを掻き分けて、何度も視線を上下させながら、剣戟の強い方へと進む。

 夢のまなこは、人混みの先で剣を交える男性と黒髪の女性、その背後で魔法を展開する女性の三人を亮然と映し出していた。

 女性は炎を撒き散らしながら剣を振るい、自分よりも大きな男性へと食らいつく。

 男性は冷たい表情かおをしていた。真紅の瞳には容赦の類など欠片もなく、ただ剣を振り上げるのみ。それだけで地面は無数の刃へと変わり果て、黒い髪の女性を無慈悲に切り裂いた。

 視界に湿ったフィルタが掛かる。視界の所持者より声は出ず、眺める様子は静かだった。

 

 その時、手前の女性が崩れ落ちる。

 血汐を撒き散らす紅蓮の宝石は男の手に握られていた。

 直後、視線は奥の女性に移る。

 彼女は僅かに狼狽と奮戦の決意を僅か一瞬のうちに済ませ、体内の魔力を最大限に駆使して男へと飛び掛かる。

 しかし、宝石箱は開けられてしまった。


 群衆に彼女の血汐が降りかかる。

 視界の主もきっとそれを浴びていた。

 彼の眼は真っ赤に染まって、体を制御する別の理性は初めからなかったかのように喪失してしまう。

 この者の人生における最高速度で彼は駆け、二つの宝石を眺める男に向かって手を伸ばした。

 夢は終わりだった。

 

 ◇


 一度止まったはずの剣戟が、今なお私の耳に響く。

 今度は、酷い雨の音と共に。私の視界は天井に固定されたままで、体は動かそうと思っても動かない。

 外で何が起こっているのか。いや、そもそも私がどうなったのかさえも上手く思い出せない。

 きりきりと痛む腹部だけが私の存在を証明してくれる。

「……だれ、か」

 周りには誰もいない。

 痛みと共に明確化する意識が私の記憶を取り戻す。

 私は水の精霊ウンディーネに敗北した。いくら相手との相性が悪かったとはいえ、あそこまで一方的に、手も足も出ずに倒れたのは初めてのことだった。

 魔王が支配する世界。その存在の強大さくらい、想像できたはずなのに。

 直後、剣戟の音がピタリと鳴り止む。

 雨を受け止める窓がどこかにあるのだろうが、首を動かすことすらままならない今の私に、その発見は難しかった。

 ぼうっと音の原因を考えるも答えは出ない。少しの後に近くで扉が開いたので、剣戟が身近なところで起こっていたことを理解した。

「涼華? ……魔力が戻っている。今すぐ水と氷を!」

 優しくて芯のある聞き慣れた声。ファルセットのものだった。

 こちらが気付くのと同じ頃、ファルセットが私の顔を覗き込んだ。焦燥と安心の入り混じる複雑な表情だった。

 腹部が痛むせいか声が出ない。そんな私の様子を察してくれたのだろう——ファルセットは優しい視線と共に私の頬を撫で、小さく笑った。

「本当に良かった。……いえ、怪我の具合から見ても決してよいと呼べる状況ではありませんね。貴方は今、とても喋れる状態ではない。苦しいかと思われますが、どうか安静に。私が貴方を護ります」

 精一杯、されど一度だけ頷いた。

 目覚めたばかりで話したいことが沢山あるのに、段々頭がぼんやりしてしまう。我ながらとても情けないけれど、この安心感には抗えなさそうだ。

 僅かに口角を吊り上げた後で、私の意識は落ちていく。

「涼華、お任せを。ええい——、何をもたもたしているのですか! 早く氷嚢を待ってきなさい!」

「そ——は……い。呪……が……っ——る。……ぞ」

 だんだん声が遠くなる。

 安心感は私の疲労を更に引き出して、とある単語を聞き逃した。


 

 時間の経過はわからない。私は無意識の中に意識をついた。

 肉体の重さは今、無い。真っ暗な空間に体だけは確かにあるが、どの方向が前でどちらが上なのかは判別できなかった。

 目覚める前に一度見た、あの時の夢とはものが違う。この前の夢は、かつてメリアに出会った時に見たような、自分では無い何者かと繋がった夢だった。

 今のそれは私のもの。自分の夢を見るのは、果たして何時以来のことだろう。

 尤も、夢は何の変哲もない虚無だった。程なくして世界の黒が薄くなり、残る漆黒が魂のない煙になるまでは。

「呆けていては引き込まれます。涼華、どうか動かぬように」

 黒き煙の奥から一つの刃が突き出して、真っ黒を背景に溶け込ませる。

 現れた赤い髪の彼女とは先ほど別れを告げたばかり。

 夢の割には顔がとてもハッキリしていて、振るわれる剣には濃密な魔力が感じられる。夢か現か、ファルセットは私を護りに現れてくれたらしい。

 でも、体だって自由なはずなのに、私は戦いに転じる意志を持てなかった。

 黒い煙は次々に出現する。無言で近づいてくるそれらをファルセットは瞬きの間に斬り払ったが、直後彼女の背後で発生した煙と、再び私の目の前に現れた煙が同時に攻撃を仕掛けてくる。

 二つを吹き飛ばしたのは低い声の男だった。

「ジャルベール、油断するな。意識の行方はさておき、怨霊にしてみればこの器は高級なものだ。望まずして生を奪われた人間なんざ、もう一度の生の為なら一人くらい平気で蹴落とすぞ」

「わかっている。もう下手は打たない」

 瞬間、ファルセットは魔力で辺りの煙を押し退けると、剣を鞘に一度納め、緩慢な、されど重厚感のある動作でそれを引き抜いた。

「暴風剣、抜刀」

 あまりに強きファルセットの魔法は、清らかな風となって蔓延る邪悪を塵と化す。名もなき煙にそれを避ける方法はなかった。

 しかし、影は無限に溢れている。ファルセットと男性は、その後も長きに渡ってその闇を祓い続けた。

 一向に決着のつかない戦い、その中に変化が生まれ出す。

 辺りに溢れる影が人語を話すようになった。

『痛い。イタイ。なんでこんな』

『もうオワリ? ワタシの人生コンナはずじゃ』

 失意、怨嗟、悲歎。辺りに響く虚しい声は、信じてやまなかった明日を奪われた人々のモノだった。

 体があるのだから瞼は確かに存在するし、耳も当然その通り。だから声は入ってくるわけで、瞼の裏には衝撃的な映像が流れていく。

 悲痛さはやがて、私に強い後悔を思い出させた。

 

 私はウンディーネの残虐性を目の当たりにしたし、その上で彼女の力に屈することしかできなかった。

 奪われるものの苦しみはわかる。私が弱いままでいる間に、人が増え続けることも、頭のどこかで既に理解している。

 砂漠で失われた命も、そう。

 はじめに救ったのに、最悪の手段で命を奪われてしまったエルフの少女。自分たちの中での争いにばかり目がいって、失われることを看過してしまった集落の人々。

 つまるところ、同じだ。

 私がそこに関与していたか否か、相違点はただそれだけ。どちらも無為に失われた命で、私が目指すのは、人をゼロにすることのはずなのに。

 失われた人がいる以上、全ての人を救うことなんて出来やしない。


 否。答えは、確かに否。私が自らを捨てれば、それが可能であると実現できる。

 頭に浮かんだもう一つの考えは、さりとて私の意識を蝕んだわけではない。ただ一瞬のみ脳裏に現れて、すぐに理性が否定するはずだった思考。

 しかし僅かなその迷いが、私をより深い淀みへと誘った。

「なりません。どうか耐えて!」

 視界としてそこにあったものが揺らぐ。目の前に立つファルセットの像はぼやけて、先ほど眠った時と同じように、私の意識は深みへと進んでいく。

「間違っても触るな! ウンディーネめ、此処まで怨を溜め込ませるか……!」

 先の男性が声を荒らげる。それでも、地に引き摺り込まれる私を助ける術は持ち合わせていないらしい。夢幻の中で、私は地面に堕ちた。



 うねる視界は次の世界を作り上げる。

 どうしようもない夢現、抗えない後悔と迷いは、動かなくなった私から、我武者羅という最大の武器を奪い去る。

『何で前を向いていられるの? お姉ちゃんの後ろには石ころがいっぱいあるんだよ』

 先の声は未だ響く。似ているが、エルフの少女ではないだろう。しかし、心の隙間に入り込んだ私にとっての弱さは、想像しうる限り最悪の存在として夢の中に根を張っていく。

 薄々勘づいていた。

 力不足のために、私は一つの達成に多くの命を手から零していたことを。

 ……つまるところ私にとって、我武者羅という最大の武器は、同時に、最低であるまじき逃避行だったのだ。

『遊ぼうよ。まだ、拾えるところにあるんだよ』

 子供の声は具象の放棄を訴える。

 溢したものを拾い上げれば心の穴は満たせるだろうか。

 それもまた一つの戦い。一つの我武者羅なんだろう。

 

「違うな。零されたものはお前のそれではない。落とし物に囲まれて笑うのが貴様の我武者羅か。否。貴様の覚悟は我を殺めたあの時より既に決まっていたはずだろう。何を恐れることがある」

 私の我武者羅を肯定し、一つの戦いを否定するものがいた。

「救えるものには限りがある。足元に転がる石ころを拾い集めても、いつかいずれかを捨てなければならぬ。故に人は石ころには目もくれない。それでいい。理念の脆弱さで死するくらいならば」

 男とも女とも取れぬ声。

 かつて、それの不快な笑い声に苛立った。私の戦意アルビオンは奴の手によって覚醒した。

「……貴方は」

 汚濁の底で、初めて声を絞り出す。

 狂気に満ちたもう一人の精霊。サラマンダーを其処に見た。

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