夜食のお時間


 帰宅という二文字が、かつては何よりも大好きな身だったとしては、これほどまでに気が重く感じるものになるとは、一年前までは思っていなかった。

 中学二年くらいまでの僕に、そんなことを伝えれば、鼻で笑われてしまうことだろう。


 そのくらい、僕は自分の家というものを、何よりも代えがたい安息の場所だと思っていたし、実際そのように過ごしていた。

 だというのに、今では打って変わって、家に寄り付かなくなってしまったのだから、人生何があるか分からないな。


 ……いや、本当に。何があるか分かったもんではない。

 ままならないことばかりだし、いつも予想外のことばかり起きて、頭が追い付かない。


 世界は僕に、もう少しくらい優しくしてくれても良いんじゃないのかなあ、なんてことを考えながら歩いていれば、家にはすぐに辿り着いた。

 藍本家と、神騙の借りている部屋はそう離れていないのだから、当たり前ではあるのだが。


 考え事の一つや二つしていれば、十分なんてすぐに過ぎ去ってしまう。

 流石に、ぼちぼち電気の消された家なんかも増えて来て、住宅街でありながら人気は皆無だった。


 これでミステリーかホラーであったのならば、僕が何者かに襲われているところであるのだが、現実は現実だ。

 ラブコメでもなければ、ファンタジーでもないこの世界で、何が起こる訳もなく、なるだけゆっくりと開錠し、静かに扉を開いた。


「ただいま帰りましたー……」


 囁くように紡いだそれに、返答はなかった。

 とはいえ、それは何もおかしなことではない。


 沙苗さんも旭さんも、基本的には日付が変わる前に就寝している人たちだ。それは愛華も同じであり、だから先程まで外に出ていたというのが、少々以上に意外だった。

 つーか、こんな時間に、一人で出歩かないで欲しいな……と思うのは、流石に過保護すぎるだろうか。


 なまじ小さい頃から見ているだけに、少しばかり不安だった──今でこそ何ともないが、愛華は昔、身体が弱い少女だったから。

 まあ、今ではバリバリに武道とかやってるんですけどね。合気道だったか? 下手に喧嘩でも挑めば、千切っては投げてを繰り返されそうだ。


 言葉でも運動でも勝てなくなったら、兄としての威厳もクソもない──いや、その前に、家族であるかどうかすら曖昧なのか。

 愛華は僕を、「兄さん」と呼んではくれるが、しかし、僕は愛華のことを「妹」として、見れたことはあっただろうか?


 いいや、無い。

 自分に問いかけるまでもなく、一度も無かったことだけは確かである。


 友達の延長線、あるいは親戚の延長線。


 そういう目でしか見てこなかったし、やはりそれで良いとも思っていた……んだけどなあ。

 結局のところ、関係性というのは、互いがあって、想い合って、初めて成り立つものである──それはつまり、どちらかが一方的に、決められるものではないということだ。


 愛華のことをちゃんと見てあげて欲しい。愛華は僕をずっと見ている──というのは、つまりそういうことなのだろう。

 こんな僕を、それでも兄と呼んでくれる、藍本愛華という少女のことを──僕の、義理とは言え、妹のことを。


 友人でも、ただの親戚でもなく、一人の家族として、妹として見てあげてほしいと、きっと神騙はそう言ったのだと思う。

 けれどもそれは、ハッキリと言ってしまえば、余計なお世話でしかない。


 だいたい、出会ってまだ一週間も経ってないような、友人とも言い難い不思議な……ともすれば、異常とすら言える人間に、僕の何が分かるというのだろうか。

 その上、遠慮なんて言葉は脳内辞書に記載されていないような、グイグイ来るタイプのフルアタッカー女子なのである。


 僕は神騙ではない。そしてこの問題は、僕の問題だ。横から口を出されるような謂れはない──はず、なんだけどな……。

 神騙の言葉には、どうにも逆らえない力があるように思えた。


 何というか──そう、それこそ、。それに近しい、目には見えない、しかし抗い難い圧力を感じられるのだった。

 あるいはそれは、ただ単純に、僕が目を背けていた部分を露にするような、忠告にも近しい一言だったから、というだけの理由かもしれないのだが。


 誰にだって、どんなきょうだいにだって、様々な事情があって、様々な形があるだろう。

 けれども、それ以前にきょうだいはきょうだいであるのなら。


 僕らも──僕だって、まずは愛華と、兄として、兄妹として、どれほどの距離感だったとしても、まずはしっかりとした関係性を、作らないといけないのだろう。

 こみあげてくる溜息を飲み込み、いやに胸を叩く心臓に、平静を装うよう指示を飛ばして深呼吸をした。


 たっぷり数十秒使って準備を整えて、それからやっと、「あいかのおへや」という、可愛らしいプレートが下がった扉をノックした。

 途端、パタパタという物音が部屋内から響き、その数秒後に扉は開かれた。


 長い黒髪がさらりと揺れて、見慣れた黒い瞳が僕を見る。


「珍しい……いいえ、初めてですね。兄さんから私を訪ねてきたのは。何か御用ですか?」

「あー、えっと、その、あれだ。夜食とか作るけど、一緒に食べ……ていただけませんか、みたいな?」

「……ふっ、あははっ、何ですかそれは」

「あんまり笑うなよ、結構勇気出したんだからさ……」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る