今日は帰りたくない
「今日は帰りたくないな……」
駐輪場に向かってぼんやりと歩いていたら、不意に終電を前に、勇気を出した彼女みたいなことを言ってしまった。
すぐさま我に返って訂正しようとしたのだが、それより先に、キラキラとお目目を輝かせた神騙が、僕を覗き込むように見てくる。
「ふふっ、それじゃあ、これからどうしよっか?」
「付いてくるのは決定事項なのな……」
「そこはほら、わたしはきみのお嫁さんだしっ」
「へいへい……つっても、今日は昨日よりだいぶ遅くまで残るけど、本当に良いのか?」
この後、何か予定がある……という訳ではもちろん無い。基本的に僕のスケジュールはまっさらで、書き込む余地がありすぎるくらいだ。
だから、これは気分の問題でしかない──あ、今日は無理したくないな、というスイッチが入ってしまった瞬間とも言う。
感覚的な話でしかないが、ここ一年の経験上、素直に従っておくのが吉であることを、僕は良く理解していた。
下手をすれば、口に含んだ瞬間、その場で戻してしまいかねないからな。
そんなことになってしまえば、関係を改善することはおろか、維持することすら未来永劫、不可能になってしまうだろう。
現状ですら、家にほとんど寄り付いていないというのに何を、とは思うかもしれないが、別に険悪な関係になっても良いだなんてことは、僕は欠片も考えていないのだ。
ほどよい距離感を保ってくれればそれで良いし、その為には、もう少しくらい分かり合った方が良いということも、流石に分かっている。
だけど、それだけだ。分かっているから出来るのならば、とっくにそうしていたことだろう。
出来ないから……出来なかったから、今がある。それはどうしようもないことで、少なくとも今の僕には、手の施しようがないことだった。
そういう訳で、今日はファミレスで粘ろうかと思っていたのだが……。
神騙と二人で、夜遅くまでファミレスで時間を潰すのって、どうなんだ?
ただでさえ、学校内ですらナンパされるという、奇跡的な光景を生み出した神騙のことである。
日本は治安が良いとは言え、人畜無害な人間しかいないという訳ではない。
夜が深まれば深まるほど、訳の分からん人は湧いてくるものだし、ただでさえ人目を惹く神騙は、そういう輩からすれば格好の的だろう。
もし神騙がまた絡まれた時、僕では盾になることすら難しいのでは……と思わざるを得なかった。
仮にリスクを避けるのならば、それこそ今すぐ帰らせるか、あるいは別の場所を検討するかなのだが……。
ご存知の通り、選択肢をまったく持ち得ていない僕である。
ど、どうしよっかなぁ~……。
「わたしは大丈夫だよ。きみのいるところに、わたしありなんだから」
「強者っぽい発言出てきたな……」
「そして、行く場所に困っている邑楽くんに、わたしから一つ提案があります」
「むっ」
一目で困っていることを見抜いた神騙に、言葉にならない戦慄を覚えるが、グッと飲み込み続きを促した。
毎度毎度突っ込んでいたら、僕の身がもたないというものである。
「昨日話した、図書館のこと覚えてる?」
「……あぁ、この街にも小さいのがあるって話か」
「そうそう、そこに行ってみない?」
「僕は別に構わないけど……まだやってるのか?」
時刻は17時を少し超えた頃合いだ。図書館の平均的な閉館時間なんて、把握している訳もないが、規模が小さければ小さいほど、何となく早く閉まるイメージがある。
今から向かったとしても、18時くらいに閉館されては、ほとんど無駄足となってしまうだろう。
しかし、そんな質問は想定していましたと言わんばかりに、神騙は笑みを浮かべる。
「そこは心配しなくても良いよ、どれだけ居たって何にも言われないところだから」
「それはそれで不安になってきたんだけど……それ本当に図書館? 普通に誰かの個人宅とかだったりしない?」
ただ単純に、本を多く保有している人の家を、図書館呼ばわりしている疑惑がかけられる神騙だった。
もしそうだとしたら、丁重にお断りさせてもらいたい。
初対面の人の家でリラックスとか出来る訳ないだろ。僕を嘗めるなよ。
というか、相手だって嫌だろ……神騙の知り合いとは言え、いきなり知らない男子高校生が、夜遅くまで貴方の家で本読みながら時間潰します! とか言って来るのはシンプルにホラーだ。
僕なら泣いて追い返すまであるね。
人にされたくないことは、なるべく人にはしない主義なんだ、僕は。
「警戒しすぎだよ……わたしは邑楽くんと違って、ちゃんとした常識人なんだから。安心して、全部委ねて良いんだよ?」
「サラッと僕を異常者扱いするな! どっちかって言うまでもなく、神騙の方がぶっ飛んでるんだよ! 委ねてたまるか!」
「しかし、そう思ってるのは邑楽くんだけなのでしたとさ、ちゃんちゃん」
「モノローグ風に〆て、僕が不利なまま終わらせようとするのはやめろーッ!」
ジタバタと反抗するも、「ほらほら、行くよー」とのんびり宣う神騙に、自転車まで連れられて行く。
昨日、初めて後ろに乗ったばかりだというのに、既にそこは定位置だとでも言わんばかりに、準備する神騙であった。
その美しい、はしばみ色の瞳は僕に「早くして!」と訴えかけてるようだった。
その姿に一瞬だけ見惚れてしまい、それから「はぁ」と小さく息を吐く。
一度も承諾した覚えがないのに、行き先が決定されている……。
こんなことが許されて良いのかよと思ったが、今更過ぎるというものである。
人生、何事も諦めが肝心だ。
気に入っている一言を脳内でリフレインさせてから、よっこらせと自転車をこぎ始めた。
「一応言っとくが、ちゃんと捕まってろよ。あと、転んでも文句は受け付けないからな」
「分かってる分かってるっ」
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